☆≡≡更新情報≡≡☆

 
いやもう……えらいことになってますね。
みなさんは、悪い風邪にかかったりされてませんでしょうか。
オイサンはどうにか元気です。

 
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 ◎『アマガミ』 絢辻さん SS リンク目次
 ◎『アマガミ』 絢辻さんシナリオ解読企画 「手帳の中のダイヤモンド」目次
  

●●====  日記・旅など  ====================================== 
 ▼漆喰の波にゆられて~北へ。29 釧路~阿寒・オンネトー
   [第1回] / [第2回] / [第3回] / [第4回] / [第5回]
  高齢、年始一発目の北海道。今年は阿寒でスノーシュー。

 ▼ワダさんにティーチャーをお願いする、の段~Microsoft Wireless Display Adapter・導入編
   タイトルの後半そのままのお話です。

 ▼君はパーフェクトガンダムに刻の肛門を見たか
  パーフェクトスーツファクトリーの略語の、最後のAってなに? アナル?
 
 
●●====  感想やご意見  ===================================== 

 〇一眼レフと、ちくわと鉄アレイ~ゲーム『LoveR kiss』『Nin NiN Days』感想!
  主君として出会った、一人のくノ一との運命(さだめ)の話です(ちがいます)


 〇合理、打算、そして誠意。沈黙の異能モンスター、金森さやかと出会う~『映像研には手を出すな!』感想
   今期は『映像研』の金森氏にゾッコンなんです。

 〇頃頃な 不要不急で 無観客
  コロナ騒動で、いろんなスポーツが無観客試合。そのとき演劇は? そして、プロレスは???  
 
  
●●====  二次創作・SS  ====================================== 
 ▼はーふぼいるど・異端審問 ~『となりの吸血鬼さん』より~
   (1) (2) (3) (4) (5)
  ソフィーちゃんがたどたどしい手つきでゆで卵をむきます。

 ▼渡りビトの遠いなわばり~SS『けものフレンズ』より~
   アニメ『けものフレンズ』より。あの好奇心旺盛なフレンズが、
   フレンズの、そしてヒトのある習性について、知りたいここがあるらしい……。
  
 ▼沢の踏み跡
   『ヤマノススメ』より。 「お漬け物の家」(↓)の続編
 
 ▼お漬け物の家 前篇 / 後篇 / あとがき
   『ヤマノススメ』より。ルリビタキを見たいここなちゃん、お漬け物お弁当で発進!
 
 ▼あやとりのソラ、夏海のストーン・ヘンジ (1) / (2) / (3) / (4)
   『のんのんびより』より、ひとり帰りのバスに乗りそびれた夏海が見つけたものとは。
 
 ▼『GJ部』SS・コタツじかけのオみかん~みかんのすじは俺のすじ~
   その(1)その(2)その(3) Interval
    ある年のお正月、うるさい家を抜け出して、こっそり部室に潜伏に来た真央。
 
 ▼稜・線・鼎・話 ~『アマガミ』SS・絢辻さん・薫・中多さん~ 前編 / 後編
    『アマガミ』より、輝日東高校・放課後の美術室で出会った三人。
 
 ▼a white day~ミューズの座布団 その一 / その二 / その三 / その四 / その五 / その六
  『ひだまりスケッチ』から、なずなと宮子、ある日曜の一幕。
 
  
 
 

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2020年7月12日 (日)

■愛の稲妻に撃たれて。~2020年4月期アニメ感想 -更新第1401回-


 なんかもう世の中はずっとこんなんで、書こうと思えばっていうかただ書くだけなら書くことはナンボでもあるんだろうけど、少なくとも世の中の動きに関しては書きたいコトなんかナンもないオイサンです。だってバカバカしいんだもん。

 また東京でミッドナイトコロナマンが感染爆発してるとか、百合子アラートがどうだとか、都知事選がどうしたとかこうしたとか、いちいち書くコトじゃないですもんねえ? にしても百合子、もうオーバーシュートって言葉とか忘れてるんじゃないだろうか?

 かと思えば、雨が……ひどいですね。
 今年もまた、7月入った途端この大雨ですよ……びっくりですっていうか、ここ数年はずっとこんな感じですね。呑気に言ってる場合じゃないんだけど。殊に九州・四国・岐阜長野・千葉辺りの方々は。
 ……ねえ。もう、この先ずっとこうなのかしら? 日本がバッチリ前線の通り道? みたいになっちゃって。ちょっとこう……気温とか気流の都合で、通り道がずれちゃったんでしょうかね。



■2020年4月期アニメの感想


 マそんなんで……色々あった2020年4月期だったわけだが、放送中断になった『ていぼう日誌』『天晴爛漫』の放映も再開され、一安心である(まだ安心している場合ではない)。


 クールの始めの記事に書いた一軍・二軍のうち、見るに堪えなかったのは『かくしごと』くらいで、他は全部最後まで見たというのは快挙である。10本。中断分を抜いても8本であり、これは例クールに比べて多い。『BNA』『邪神ちゃん』あたりは終盤たるんで流し気味になったが。
 期初の出足感想はこちら ↓ 。

 ▼放課後 Stay Home日誌・Re Dive!~2020年4月期アニメ感想
  http://ikas2nd-special.cocolog-nifty.com/ybsk/2020/05/post-393a85.html
  http://ikas2nd-special.cocolog-nifty.com/ybsk/2020/05/post-0ee74d.html

 三軍の2本も……いちおう最後まで流しはしたが4倍速だったことはいうまでもない。最高に面白かったです名作。


 『波よ聞いてくれ』は総じてハイクオリティで面白かったけど、ちょっと単調だったことは否めないと思う。7、8話あたりで、ずっとこのままいくんだとちょっとシンドイなーと感じて見るのを止めそうになったのも事実。1クールで1話完結というのは、もっとよっぽどネタ側にふらないとシンドイように感じた。大きなうねりの方をもう少し見せてほしかった。


 『プリコネ』は、期初にはホメたけど、終わってみたら超高級クソアニメでした! っていう。それでも十分すぎるくらいのクオリティあったとは思うけど。こちらもまた、7、8話あたりで単調さが鼻についた。なんだろう、こういうペースの作り方・逃げ切り方がイマドキのトレンドなんだろうか。


 そんな中、『球詠』はペース配分も単発ネタもほとんどない、大筋だけの流れでとても印象が良かった。川に例えるなら、始まりからおしまいまで下流の雄大な流れ一本で押し通した、という感じだ(なぜ川でたとえたし)。この期で一本選べと言われたら、コレか『かぐや様』である。しかし悲しいかな、画が……しかも動画でなく、止め画というか、動かす前時点の基本の画がアレ。
 それでも動画で見せるところは十分迫力があって、止まった絵がこれだけヨレているのにキチンと説得力をもって見られてしまうというのは、話と動きがによっぽどメリハリを感じさせてくれたということなのだと思う。まオイサンが野球わかんないから誤魔化されただけかも知んないけども。


 意外と健闘したのが『アルテ』。まさか最後まで見ることになるとは思っていなかった。とはいえお話の上で予想外のコトは何も起こらなかったんだけど。世が世ならハウス名作劇場で流れるタイプの作品であったと言えよう。ただただ素直に見られた。まあ、ゴハン食べながら安心して流せる、という楽しみ方ではあったけど。ハラハラ・ドキドキ・ワクワクの類は概ね皆無であった。


 そんなアルテさんの意外な健闘とは裏腹に、っていうかある意味予想通りだったのが『シャチバト』。まあ……しょうもなさで始まった作品なのでしょうもなさで終わっていいのか……。どうして最後まで見たのか謎。安定・安心感はあったけど、なんというか、初代プレイステーションの、ファミ通クロスレビューで6点がつくゲームみたいだった。「いちおうまともにプレイはできる。声優のファンなら買い」くらい。


 それはそうと、今回書いておきたいのは『かぐや様は告らせたい』である。2期を見終わって相当感心している。
 2期はギアを上げてきた……というか、乗る車の車種そのものを変えてきたな、というのが分かった。1期目がイマドキのおりこうハイブリッドカーだとするならば、2期目はアメリカンV8だった……そんな感じだ。ぶおんぶおん!!

 始まったときの感想で「2期目の作品の多くは、1期でメインだった本来の主人公たちは一歩後ろに下がり、味を濃くしたバイプレイヤーたちのツッコミ役に回ることがままある」みたいなことをしたり顔で書いてしまったが、その傾向も若干ありはしたものの、御行くんとかぐやさんが全然天才ではなくただのアホ&変態になって、思い切り場を引っ張る展開となっていた。これは予想外……というか、ホントもう天才設定どこいった? 周りにもアホが完全にバレてんじゃん、よく生徒会2期目再選できたな! と呆れるばかりである。

 例によって2話目から見たので意識しそびれてしまったのだけど、1話目の冒頭で「天才たちの恋愛頭脳戦」のサブタイトルを完全に捨てに来ていたのだな。2期、アタマ空っぽだったもんな……これは英断であったように思う。看板に偽りなしというやつだ。

 ついでに、そのサブタイが外れることによって、自分がもう一つ誤解とともに抱いていた違和感である「この作品は、御行くんとかぐやさんの恋の綱引きがテーマではなかったか? 2期の視点がこんなにかぐやさん寄りでいいのか?」というものも、タイトル通り「『かぐや様は』告らせたい」なのであって、比重がかぐや様サイドにあるのは別に構わへんかったんやと、あと追いながら腑に落ちた次第である。

 サブタイ一つ棄てることによって全ての辻褄が合っていく、なんとも巧妙な手口であったと言えよう。1話から見る価値もある。もし3期目があるのであれば、この作品だけは素直に1話から見るようにしようと心を入れ替えた。



■愛の神に愛を歌わせる、ただそれだけで。


 それにしても呆れるのは、アニソン界期待の大型新人、鈴木雅之のすごみと、それをこの作品のテッペンに据えた御仁の慧眼である……マ個人の慧眼じゃなくてレコード会社と作品の兼ね合いなのかもしれないけど。けど、さすがにこの取り合わせでそのセンはないんじゃないだろうか? 「鈴木雅之をアニメで売り出したいから抱き合わせで!」とかあんのかしら? わかんねえけど。
 
 ▼『DADDY ! DADDY ! DO !』
  
 
 
 昭和から令和の長きにわたり、この国の男と女の愛の形を見つめそして歌い続けてきた男の歌声をこの世界の入り口に据えることによって、この作品が愛の物語であることに力技で説得力を持たせたその手腕、愛とコメディをマリアージュさせる手法の本質を見抜いた魂の技量に、ただただ感服するのみである。


 『かぐや様』の描く愛の形が、オモシロおかしき滑稽な姿であると同時に、イヤ待てよ? 果たしてコレは本当に滑稽なのだろうか? 愛とはそもそも、ド真面目にやりきったとしてもこんな形に落ち着くものだったのではないだろうか? とウッカリ説き伏せられてしまいそうになる。鈴木雅之の歌う愛、それは、半世紀の間、グラサン・口ひげ・喉ボトケの3点セットだけを武器に、オトコとオンナを、愛をブン殴ってきたモノの凄みである。

 「愛ってなんだ?」と問うたなら、ノータイムでオトコとオンナがいたらその間に勝手に発生するモンのことだよ! と答えが返って来る、ガタガタぬかすな感が凄まじい。黒い駒2枚ではさんだら白が黒に裏返る、オセロのルールに文句をつける人間がこの世界にいないように、鈴木雅之の歌う愛に異を唱える者は、この国の愛界隈にはいないのである。マ、藤井聡太七段くんさんくらいは文句言うかもしれない……すげえよな、藤井聡太七段くんさん。多分、ものすごい歪んだ性癖持ってると思う(偏見にもほどがある)。

 鈴木氏の歌はもちろんコミックソングなどではなく、それ単体では断じて滑稽などではない。マ昭和の時代の、オトコとオンナのアッチョメやコッチョメなんて、今から振り返ったらそりゃ滑稽そのものかもしれないが、彼は50年ちかくそれを見つめ続け、歌という形にしてきた、日本が誇る愛の造物主であり育ての親! たとえ滑稽に見えたとしても、そのファクターはスリム&スマートが全てとなった今の世の愛の中にも、必ずや埋もれている芯であり核であり、真実の本質である。『かぐや様』作中の言葉を借りるなら、彼の歌こそが真実の愛・本当の愛(言っちゃったよわたし……)なのである。

 中国拳法における象徴が郭海皇、「郭海皇がやっているのだ、中国拳法以外の何物でもない!」であるなら、「鈴木雅之が歌っているのだ、愛以外の何物でもない!」と言えるのが鈴木雅之のラブソングである。

 昭和では大真面目、なんならカッコ良くさえあった愛の形が、令和の高校生にはスマートでなく泥臭く、コミカルでさえあるように映るという時間の重力レンズ効果を利用して、「カッコいいのにどこかおかしい」「どこかおかしみがあるのにそれでも芯はカッコいい」というフクザツ極まりない感触を、モノの見事にフィルムの上に……フィルムが流れた後の心の余韻の中にのみ顕現せしめた剛腕は、是非とも後世に語り継がれるべき慧眼であろう。

 だってもう、『DADDY!DADDY!DO!』、フルコーラスの最後は、
 
 
 ♪ 愛に抱かれ ギラギラ燃えたい 命果てる夜明けまで
 
 
ですからね。この一節がONAIRに乗らないとはいえ、イマドキこんなんないでしょ。フィクションならあるかもだけど。いまの愛し合う現役世代の人たち、愛に抱かれて命果てる夜明けまでギラギラ燃えたりしませんからね。知らんけど。

 かように、さながら時とともに変化する長熟なワインの味わいを巧みに料理と重ね合わせて幻を演出する料理人のように、時間経過によって醸されてきた「カッコいい → 三枚目 → 滑稽」という愛の変化を取り込み、作品に外連味・幻惑の妙味をほどこした巧の技と言えるであろう。無論、オイサンはワインなんか飲まないで知りませんが。一回死にそうな目に遭ったからなー。


 ……あと、妙におかしかったのが。
 Bメロのおしまいに出てくる

  ♪ 遊びが真剣(マジ)になる!

っていうフレーズが、藤原書記が持ち込んでくるしょうもないゲームにすぐにムキになる生徒会の面々に重なり、お前らそういうイミでかw! っていうおかしさ・滑稽さが、完全に歯車の噛みあった形で機能していて素晴らしかったと思います。最終回のフーセンふくらましゲームとかね。
 
 
 
 ……。
 
 
 
 マそんなんで、『かぐや様』は、きっとこの調子で行くと3期もあるのだろう、という確信めいた予感があるのだが、この作品何かに似ているなと思ったら、『WORKING!!』だった。
 『W!!』は、メインの登場人物全員が、恋をしているか何らかの問題を抱えていて、他の誰かの滑稽さに気付かない・かかずらわっている余裕がなかったという点において『かぐや様』とは異なるが、ずっと腹の底に笑いのタネがころころと漂っている胃痙攣のようなおかしみの本質は、互いに通底するところがあるように思う。



■Closing~『アマガミSS』放映から10周年


 マそんなカンジで、前の期のアニメのことでした。

 そんな中、ツイッターのTLではアニメ『アマガミSS』の公式アカウントが、10周年だっていうことでプレゼントキャンペーンみたいなことをやってらして、アニメの『アマガミSS』が好きだった人たちの間では中々盛り上がっていたご様子である。

 自分の感覚だとちょっと違和感があったのが、そういう「公開からn周年!」みたいなコトを制作側から言うのって、そのn年の間、作品に関して継続的に何らかのリリースが……細々ながらだとしても……あった場合だと思っていたので、なんか急にパッと甦ってさも大げさ目に盛り上げていくのってどーなんだろ、とちょっと冷めた目で見てしまいました。
 
 



 イヤお楽しみがある分にはエエんですけどね。お祭りがあまり得意でない性分なもので、エエ。

 「ピカソ没後100周年」みたいな、かなりな大御所のように、社会通念的に、広く深く認知され敬愛を受けていることが周知の事実としてあるものはまあ、わかるんですけども。「ファミコン発売から××周年」とか「『ドラクエ』誕生から~」とかね。後者の場合はもうずっとシリーズ出てるわけですし。
 ファンのサイドから出た言葉なら、それもまた分からないでもない。言い出す方々のうちでは×年間ずっと生き続け、現役だったのでしょうし。

 ゲームの方も昨年急に展示モノをやってはおられて、「なんでまた今?」と思いはしたものの、あんまり周年記念的なことは前面に押し出されていなかったので(なんかじわっと御大から「10年経つっぽいんで、なんかやろうかと思うんですが」的な始まり方をしたのが見えていたから、ああそういう気持ちなのね、ということで)納得もいった感じだったんだけども。
 マ喜んでるファンも大勢おられたんで、良かったんじゃないかと思います。「没後10年!」くらい毒が効かせられてれば、自分もモ少し素直に乗っかれた気もいたします。


 マそんなんで、2020年、波乱の4月期アニメの感想をお送りしました。オイサンでした。

 ……ところで、中断した作品と言えば『ギャルと恐竜』は再開しないンすかね? すみませんアレ大好きです。挿入される「恐竜チャンネル」と、後半の実写パートは当たりハズレが大きいけど。
 
 
 

 

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2020年7月 5日 (日)

■記憶の広縁 -更新第1400回-


 何かの感想か旅行記を書いたときにすこし触れた、「言語化して残すこと」の意味について、思うことがある。

 本や音楽など作品の感想とか、旅行記とか、記憶や感情の感触として確かに残っている部分を、言葉や文章に当てはめて残しておくことは有用だし、価値のある活動だ。少なくとも自分にとっては。

 薄れゆく・変化していってしまう記憶をそれ以上変化しないように、或いは変化するにしてもある時点での結論を定着させておくという意味でもそうだし、言葉として形をなさない心の曖昧な感触を、形ある伝達可能なものに成形しておくことに、やはり意味があると思う。ここでいう伝達には、他者に対しての意味もあるし、時間を隔てた自分に対してという意味もある。



 言葉にならないモノゴトを書き表すためには、感覚を掘り起こし、そのとき自分にインプットされたものや周囲の状況と照らし合わせて、自分で納得がいき、且つ他者(もしくは未来の自分)との橋渡しが可能なロジックで繋ぎ合わせなければならないが、作品や旅の真っただ中にあるまさにその時には「この気持ちを言葉にすることは難しい」と思っていることでも、その感触の生じた対象をよく思い出し、前後周囲の状況を掘り下げて整理することで、案外言葉にまで落とし込めるものだし、奮闘する過程では新しい言葉を手に入れることもできる。

 「新しい言葉を手に入れる」は、単純に語彙そのものを増やすということに限らない。最終的に落とし込まれる言葉がすでに持っているものだったとしても、そこへ至る新しい思考の経路を見出すということでもある。一つの言葉が持つ厚み・使いどころが増す。「自分は、コレコレこういう経緯をたどって出てきたこういう感情も、既に知っていたハズのこの言葉で表現するのか」という発見は、新しい言葉を手に入れることに等しい。場面で切るカードが増えるのと同じである。そしてそのことは受け手にも――相手が一定以上のリテラシーを持つ者であれば、という但し書きがつくが――通ずる。

 そういう「言葉としてまとめる」活動は、繰り返しになるが、言葉を操り、言葉でコミュニケーションを図る生き物として、意義のあることだと思う。

 無論、音楽や、絵……図形になってしまうかもしれないが……などの手段の中に、万人が明確に抽出可能なやり方で伝達したいことを埋め込む技術を持っているならば、言葉に限らないのだが。最も一般に広く残すのであれば言葉であろう。人によっては数値・数式が一番だということもあるかも知れない。私には無理だが。


 ただ、記憶の保存という意味では、これが裏目に出る側面もある。


 ありのままに掘り起こして結びつけるだけならまだしも、言葉として成形することを意識する以上は、どうしてもある程度、素材である感情・思考を変形させることになる。ぐにゃぐにゃ、フワフワと形をもたない感情の感触という素材を、言葉・文章という一定の器に収まるようにするために、ただ形を変えるだけの場合もあれば、そぎ落とさなければならない場合もある。アナログデータをデジタルに落とし込むときにするサンプリングと似ている。

 そうなるとどうしても、器の形に合わなくて削れ落ちたり変形したりが起こり、大意は残れども、ディティールは損なわれてしまう。言葉に押し込めて記録しえた以外の部分は、当然記録からは外れるし、往々にして記録したことばかりが色濃く残る結果、記憶からも感覚からも零れ落ち、抹消されてしまう。カンタンに言うと「書いたことはよく憶えてるけど、それ以外の部分は忘れちゃった」ということがしょっちゅう起こるってハナシだ。マ当たり前っちゃ当たり前だけど。

 しかし、言葉にされないまま残された記憶からは、言葉になってしまったが故の明晰ではあるが頑迷なメモリーからは得られない、柔軟でより味の濃い……煮出したかつお出汁の香りのように、あとから繙いたときに言葉よりなお深い「良さ」を、心に呼び覚ましてくれることというのも往々にしてある。
 そしてこれは、言葉にするより長持ちする場合もあるし、早々に消尽してしまう場合もある。こればかりは、個人的な思いや事情に由るところが大きいから、ある意味で賭けだと言える。



 たとえば、ここに何枚かの写真がある。宿の広縁の、テーブルの上に残された飲み食いの跡が写っている。
 
Dsc01156
 
Dsc04422 Dsc05282
 
Dsc07235 Dsc07430
 
Dsc02494
 
 この痕跡が生み出された経緯を、自分は記録に残していない。向かいに誰が座っていたのかとか、どんなことを、どんな調子でどのくらいの時間話したのかとか。実際、このとき誰と何を話したのか(または話さなかったのか)、具体的に思い出せないが、「なんかいい時間があった」ことだけは、この写真から思い出すことができる。

 けれどもその「残されなかった」事実は、この痕跡そのものや、痕跡が生み出された時間が重要ではなかったことを示さない。むしろ旅のいとおしさは、他愛ないその時間にこそあったと言える……が、旅の主旨はそこにはなかった。矛盾しているようだが、間違っていないと思う。

 「何をしゃべったのか忘れちゃったけど、なんかこのときすごい楽しかった」という記憶のシンボルとして、この一コマの結末は大変雄弁で、本当はこの一コマに凝縮された経緯のすべてをこそ、時間も空間も圧縮して表し残せる手を持ちたいと、自分は願っているのだと思う。
 なんとなくだけど、それは球体をしたQRコードのようなものではないだろうか、と思う。本当になんとなくだけど。

 永く・詳しくは残したいけど、残すとディティールが失われるから言葉にはし兼ねる……ディティールを犠牲にして確実な長期保存を選ぶか、詳しく残る時間は短くとも、味の濃いディティールが少しでも残ってくれることに望みを託すか。その2つの選択とせめぎ合いを、自分はさまざまな思い出を振り返るとき、しらずしらずのうちに繰り返しているのだと思う。

 人はよく、忘れてしまった事柄に対して「忘れるくらいなんだから、大したことのない用事だったんだろう」と冗談めかして言うが、慰め以上の意味で真に受けて生きている人間はおるまい。こんな言葉はまやかしであり、ごまかしであり、慰めである……マ思い出してみたらホンマにしょーもなかった、ということもあるが。

 そぎ落とした部分や、変形させたことで元のニュアンスとは意味を違えてしまったものに対しては、それらだけを拾い集めて語らせるパートを用意するべきなのかもしれない。人に見せること・永く確かに残すことを思って拵える作品とは別に、その過程でちぎって捨てた粘土、削って落とした石の欠片を拾い集め、趣の異なる小さくていびつなオブジェを、自分や近しい人々のためにもう一つ、拵えることが喜ばしいのかも知れない。



 ……関係のある事か分からないが、ほんのりつながることのような気もするので書いておこう。

 近頃、オシゴトで動画の編集を頼まれることがある。取り扱い商品の紹介や、展示会の様子の映像を、切ったり貼ったり、音を調整したり字幕を入れたりという程度のごくごく初歩的なことしかできないのだが、いまのところ会社の中でそれをやる人間が自分くらいしかいないようで、便利に使われている……多分、自分なんかよりもよっぽど凝ったビデオを趣味で作ってる人はいると思うのだが、マそういう御仁は巧みにその姿を潜めている物と思われる。

 それはともかく、そんなオシゴトの中で、動画について今まで意識しなかった発見があった。字幕を入れるときである。単純に文字をパッと出してパッと消す、カットイン的な出し入れをしたときよりも、ジワッと染み出すようなフェードインの演出を入れた方が、たとえその演出が短時間でも、どうも読みやすい・頭に入って来やすいように感じ、依頼元にもそう伝えてみたところ、同じ感想を抱いたようであった。

 また、「無音の動画に字幕だけ入れてほしい」という依頼があったのでそのようにしたところ、「やはり淋しいのでBGMも入れてくれ」と乞われてあとから音をつけてみると、無音のときより字幕が頭に入ってきづらい。

 単純に、音で集中がそがれるということもあるのだろうが、字幕が出ている時間は変えていないハズなのに、映像に比してテンポ速めの曲だったせいか、心が急くのか、文字が現れてから消えるのも早くなっているように感じ、心持ち字幕が表示される時間を長く調整し直した、ということがある。

 合わせる曲も、音の大きさや曲調に気をつけないと、映像・字幕よりもそっちの存在感の方が優ってしまって肝心の紹介内容の方がオロソカになってしまいかねないので、これは注意せねばならぬな、とアゴを撫でた。人間の感覚はいい加減なものである。



 音、文字、映像。これらの組み合わせ・掛け合わせで、失われるものを最小限にとどめつつ、いちばん小さなサイズで、残らないはずのものも、自分のちいさな脳細胞と神経組織のはざまに繋ぎとめることができる……のかも知れない。

 イマドキのゲームのロック要素のように、元から埋め込まれてはいるが眠っていてそのままではプレイできないデータを、開錠キーだけあとからダウンロードすることで利用可能にするみたいに……記憶そのものは頭のどこかに圧縮してしまっておいて、呼び覚ますためのキーだけを、小さな言葉にまとめ、書き残しておくような。

 そんなことができれば、記録と記憶のあいだに横たわる溝を、もっと小さく、浅くすることができるのではないかと夢みるオイサンなのであった。

オッサン夢見がち。
 
 
 

 

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