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2017年2月 7日 (火)

■帰港~喪失の港にて~劇場アニメ『#この世界の片隅に』・感想(前)~ -更新第1107回-

……いやはや、大変なアニメーション映画だった……。
こころをすっかり焼かれてしまって、まだボンヤリと、
頭が、あちらの世界から帰ってきていない。
そう、『けものフレンズ』の話です。


ちがいます。『この世界の片隅に』です。


一度目を見て、感想をまとめようとキーボードを叩いているうちに、
ごくごく当たり前のこととして2回目を見に行ってしまった。別な館で。

  ……と書いても「お前が2回見るの毎回やないか」で片づけられてしまいそうだけど、
  そんなことないからね!
  そういう映画のことを毎回強調して書いてるから、
  毎作品2回も3回も見に行ってるみたいになってるだけで、
  『シンゴジラ』も『レッドタートル』も『エヴェレスト』も、
  『君の名は。』も『きんいろモザイク Pretty Days』も、
  1回ずつしか見てないから。
  なんなら『きんモザ』に至っては0.7回くらいと言ってもいいくらいだ。
  イヤそれは作品自体の薄さの問題だろ。

『この世界の片隅に』、
ともかく、あの物語の世界を思えば思うほど、心はどんどんそちらへ求心されていく。
言葉にしきれない思いが渦を巻くから、
ここらでいったん言葉にしてしまわないとならない。

色々な見方が生まれてしまう作品だと思う。

戦争が主題であるとも見られるだろうし、
家族、夫婦、の愛、そんなものが主として心に響く人もいるだろうし、
出会いの妙、人間のちいささ、そんなものと思う人もあると思う。
そんな中で、オイサンの見た『この世界の片隅に』の感想を残しておこうと思う。

  いっときますけど、
  当たり前のように本筋に触れるコト込みでバンバン書いていきます。
  それだけ一応、断っておく。
  まあ話の筋を知ったくらいで、何一つ価値や面白みの減衰する映画ではないので
  未見だろうが安心して読むがいい。
  それで面白さが損なわれた! と思うなら、2回、3回と見ればいいよ。
  私の言っていることが間違っていないのがわかるはずだ。
  大体私の書き方では、なんのことやらわかりはしないだろう。



■戦争と物語

「戦争」は、この映画ではとても明確に主題ではなく、舞台立てであるように見えた。
市井の人間一人にはいかんとも動かし難い、
つぶさな現象としての理不尽なかなしみの塊……いわば運命のようなものだが、
それがこの映画における「戦争」の役どころであるように思えた。

  運命という言葉がピンと来なければ、
  自分がこの時代に生まれ生きていることを思ってもらえればいい。
  それもまた抗うことのかなわない理不尽のひとつだ。

人が、いかに考え、備え、いかに正しく行おうとも、
運・不運や善悪に関わりなく、避け得難く降りかかる、大気のような大きなひとつのこと、うねり、
それが「戦争」という姿をして、この物語世界には現れている。

そして主人公のすずさんは、戦争と「時代」に、翻弄
……と書いてしまうとどうしても悲劇色が強まってしまうのだけど、
  そうとも限らず、今を生きる私たちと同じで……
その時々の世の中が生み出すうねりに、あっちへ押しやられこっちで流され、
一見自分で何かを決めている様で、
実はそうしたものに囲われた中で最低限をにっちもさっちもいかず、
右往左往して暮らしている。

特にすずさんという人は主体性を表に出さない(芯がないワケではない)人なので、
殊のほか、ほんろうの色合いの濃い生き方、営みをされておられる……ように見える。
すずさんはそういう「ぼぉっと流されてここまできたこと」を、
悔いるでも恥じるでもなく、
それをよろしくないと思うことも(少なくとも物語のあるタイミングまでは)ない。
「ええんかねえ」くらいはあるけれど、それについて何らかの感触をもつことがない
(オイサン自身も、そこに良し悪しはないと思う)。

そんなすずさんの足跡はつまり、自分をとりまく戦争や時代など、
「理不尽」や「運命の様なもの」を含めたものに対する者の、天然の姿そのものだ。
そこに、強いドラマはない。
結果的にすずさんも(誰もがそうであるように、自分自身の人生の結果という)ドラマを得るけれども、
ロマンや指向性はない。

それは人間の(というか生きるものの)本質だ、と、いまのところ、41歳のオイサンは思っている。
風に揺れる柳、瀬に浮かび淵に淀む木の葉であって、
いっとき闘ったり抗ったりすることは、人の世の限りにおいてはあるけれども、
根っこの姿は、意志を「大きな」拠り所とすることが出来ない、寄る辺なき者だ。

そんな頼りない生き物であるところの私たちが、
「大きなもの」から無尽蔵にわき出すかなしみに囚われながら生をまっとうする内には
どんな喜びがあるのか……
そんな風なことを、すずさんという筆でもって、戦争という時代を画布に描いた絵巻だった、
と、この作品を受け取った。



■居場所と寄る辺、よろこびを見つけ出す場所

すずさんの義姉の径子は、そんなすずさんの生きざまに、
「さぞつまらん人生じゃろうと思うわ」と憐れむように慰め、理解を示した。
空襲が激化し、
すずさんが右手と、見知らぬ呉に嫁いできて以来の友であった晴美を同時に失い
いよいよあらゆる支えを失いつつある中で、
「広島へ帰る!」と周作さんに対して感情をぶちまけた直後の、
晴美の母である径子と和解する場面でだ。

  尚オイサンは、2度の鑑賞の中で、そのシーン……
  警報の轟く中、庭に舞い降りた鷺を追い立てようとして機銃掃射の的になり、
  周作さんに庇われて溝の中で泣きわめくシーンでだけ、涙ぐんでしまった。
  なぜだろう。

このときのすずさんは周作さんに対し、
郷里の思い人(のようなもの)であった水原への気持ちを断ち切るほどの愛情を、
既に抱いている。
それを捨ててでも郷里へ戻りたいと叫んだすずさんの心がどれほど切実だったか
想像に難くないのだが、
径子に上の様に言われ「ずっと呉にいたい」と心を翻し、言い出すのは……
これは想像に過ぎないが、「そんなことは、決してなかった」と思ったからだ。
つまり、
「自分の意志でなくとも呉へ嫁にきて働きに働いた暮らしは、
 つまらないものではなかった、
 広島の日々と引き換えに出来る、価値ある日々であったし、
 この先そのような日々になっていく」
と思ったからではなかろうか。

戦争という理不尽な時代の中、言われるままに嫁に「もらわれ」働か「され」て、
道を選んでこなかったのは確かだけれど、
果たして自分の暮らしの中に喜びはなかっただろか、誤りしかなかっただろか……。
そう考えたときに、そんなことはないという確かな結論を得たし、
他にもいくらかの、意地とかのささやかな感情もあって、
呉に根を下ろす気持ちが芽生えたと想像する。

「根を下ろす」というのは、この物語におけるキーファクターだ。
それは物語後半、「居場所」という言葉で繰り返し語られ、
すずさん自身の口からも、周作さんからも聞かれる。
径子は
「すずさんの居場所はここでもええし、広島でもええ。つまらん気兼ねなしに決めんさい」
と優しく投げかけた。
「居場所」は、寄る辺なき生を授けられる人間が、喜びを見つけ出す場所だ。
すずさんはそれを、周作さんに見初められ、径子と和解することで見つけ出している。

  余談だが、すずさんが呉に残る決断を下したまさにそのときに、
  広島に原爆が投下されるのは物語に置いて、演出はさりげなくも、
  あまりに劇的で象徴的だ。
  客観的に言うなら
  「広島に原爆が投下される直前に、すずさんがその決断を下した」のだが、
  これをすずさんの物語であるとすれば、
  彼女が決断することで、選ばなかった選択肢が消されたように見える。


――世界は、かなしみで満ちている。


それは、この物語の中では言わずもがな、戦争状態でなくたってそうだ。
満たされているのならまだいい。
汲めど尽きせぬかなしみに、絶えず押し流されている、と言った方が正しい。
現し世は移ろい続け、寄る辺ない私たちはそれを止められないし抗えもしないから、
どうしたって何かが失われていく。
失うことはかなしい。
それはもう、光の速さに追いつくことの出来ない私たちが背負い続ける業なのだけれども、
そうして激烈に失い続けるしかない暮らしの中で人々が口にする、
慰めにもならないような「良かった」という言葉に、
すずさんは、吹き飛ばされた右手を見つめてうたがいを投げかける。

  いったい何が「良かった」というのか。
  ここには、喪失のかなしみしかないではないか……。

無間のかなしみの中にいながら見つけ出すささやかなよろこびを「良かった」と肯定して、
そこを居場所にするたのだということを、周作さんの存在と、
晴美の母である径子の言葉から、すずさんは感じ得たのだろう。

どんどん失くなっていく、かなしみの塊でしかないこの世界で、
「良かった」を口にするための居場所、寄る辺とは、何であり、どうなのか、
どうやって形作っていけばいいのか……
その一つの在りようを、この作品は見せていた。



■主題ということについて

ところで先に、戦争は主題ではない(ように思う)と書いたけれど、
戦争や災害や、すさまじいもの、大きなものの中にいないと、
あれだけのスピードで失っていくこと……
「自分たちが常に喪失のかなしみの中にいる」ことを、強く自覚する機会は少ないだろう。
そういう意味では、この映画は戦争の映画だった、とは言えると思う。
ふつう、失くなることと生まれることは、
(少なくとも現代の日本で穏やかに暮らす限り)ある程度のバランスの上で起こるから、
あれだけ「失くなり続ける」ことを目の当たりにすることは多くはない。

また、テーマとしての愛(のようなものごと)についても似たようなことが言える。
径子に「居場所は自由に選んでいい」と言われたとき、
すずさんは故郷広島ではなく、呉という町の、灰ヶ峰のふもとを選び取り、
「居場所を得る」ことになるけれど、その契機を作ったのは、
他ならない周作さんの、彼自ら「最良だった」という選択だ。

周作さんが、すずさんを見初めて広島から呉へ呼び寄せ、
傍にあって真摯な思いを注ぎ続けたことや、
不完全ながらも夫婦や家族の形をともに作り上げたことがあり、
その結果、すずさんは呉で生き残った。
そして恐らくは……いつしか「良かった」を口にすることで、
最終的に、戦争という時代にも打ち勝っていく。

だから、この物語は、夫婦愛、家族愛の物語である、と捉えることにも十分にたえうる。
本来言語化を必要としないその営みを、
愛と呼んで心の力に変えていく人間独特のちからであるとうたっている、
ということもできる。

誤りたくないのは、
「だから居場所を得ればよいのだ」とか、「愛は戦争や暴力に勝る」とか……
そうした単純化を、この作品がやすやすと許していないことだ。
この作品が語ったのは、すずさんの肉体を通して起こった一つの例にすぎない。
そこに、戦争も愛も、テーマと呼べるようなものは単純なものはない。

一度は得た居場所・寄る辺も、すずさんはまた、戦争によって失っている。
皮肉にも、終戦という形でだ。
玉音放送を聞いた直後のすずさんの慟哭は「なぜ最後までやらない!」という理不尽な叫びだった。
すずさんは戦いを続けたいはずがない、勝ちたいはずもない、負けた悔しさがあるわけもない。
あの叫びは、言うなれば

「一番大切なものは失ってしまった、
 だから自分の『残り』全部がけずりとれるまで、ここですべてを失う腹を決めたのに、
 どうして全て炭になるまで失いきらせてくれないんだ!」

という叫びだったと思う。

「これでいいと思ってきた、これまでの全部が飛び去って行く」という語りには、
得たと思った居場所でさえも、
戦争とワンセットになってしまっていたことが含まれている。
手に入れた居場所は、我知らず「失う」という思いとひとくくりになっていて、
一度、終戦という形で一つの決意と切り離されゼロに戻されてしまった。
あの怒りは戦争そのものへの怒りではなく、その戦争をどこか遠くで作り上げてきた、
奪い、失うことを強い続けた挙句に失う事さえ取り上げた者どもへの怒りだ。

「『これでいい』と思ってきたこと」さえ……
何もなくても良い、「子供でおるのも悪うない」と思っていた自分や
「お嫁に行かなくていい」と言った自分を振り払って根を張ることを選び、
何を失ってでも……否、なかば失うからこそここを守って居続けると決めたことさえ、
最後には奪い去られたことに対する怒りだった。

あとになって思い返してみれば、すずさん自身も
「なぜあの時あんなふうに思ったのだろう、叫んでしまったんだろう」
と思うかも知れない……やりきれない、混濁した、理不尽な思いは胸を打った。

また、親子、家族、夫婦の愛が戦争に負けない――そんな話でもない。
それらが惨めに蹂躙され、暴力に屈する場面も冷酷に描かれている。
原爆に焼かれて故郷の呉まで、山を越えて辿り着いたものの隣保館の傍らで力尽きた、
焼けただれて変わり果てた我が子をそれと気付けなかった、母親の姿がそれだ。
片桐さん……だっただろうか。
そんな、ひとがいつも最後の旗印に掲げたがる武器でさえ、
大きな出来事の前では、ぽっきりと折れる些細な杖でしかないと突き放してもいる。




けれども、そんなものをよりどころにして生き、
「良かった、幸せな人生だ」といつかどこかで口にしなければならない、
そんなか細い、喜びとかなしみの矛盾に組み成された、人の営みの姿を描いた作品だった。




  ……人に限らず、この世の命は皆そうなのだろう。
  進化の過程で言葉や知能を置き去りにした者たちが、
  そのことについてどう感じているかは分からないが、
  彼らはそれに納得したがゆえにそれらを置いていったに違いない。

ところでこの映画を見ていて、「平和ボケ」ということもまた、考えてしまった。
それは狭義な、戦争がどーとか、危機感がこーとかいう意味に留まらず、
自分の人生が特別で安全なものであって、
「デフォルトで」理不尽やかなしみと無縁に守られているものであると思いこむことだ。
この映画が非常な稀有なもの・物語として評価されていることの背景には、
その広い意味での平和ボケ
……自分の人生の安全を生命由来のものと無意識に思い込むこと……
が、ケガや病という日常のレベルで入り込んでいることがあるんじゃないだろうか、
と思った。



……マそんなことで……。



どこまで文字にしても上手くまとまり切らないし、それも当然なのだけれども、
これが、多くの人が「言葉にならない」「一言で語れない」「感動とか泣いたとかじゃ語れない」と、
言葉にすることから手を引いたこの映画の、正体の一部だったと、オイサンは思う。
ひとりの女性が得た史実なのだから……通りの良い結論などなくて当たり前だ。
素直に混濁した思いと、何によって救われたかがあっただけだ。

それがゆえに、わかりやすく説教臭い
「辛く苦しくとも、明るくしなやかに生きていきなさい」
といったようなメッセージはここにはない。
それを全く感じさせないのが、またこの映画の凄みのところだ。

ここまで書いてきたことをまとめると
「人間存在のちいささ」みたいな、味もそっけもないあやふやな言葉になってしまうが、
そのことを丹念に丹念に、ひとりの人間のからだを通じたつぶさな記憶へと描き込んでいるから
誰の手にも届く、手触りのある形になっているのだろう。

そしてまた、そのための手はずとして、
史実や、当時の風景とのリンクを石ころレベルで図ることがあったのだろう。

地続きとも思える時代の水分を持った風景の中を、ただひとえに、
こうやって生きた人がいたかも知れない、
生きていくことが出来たかもしれない、
この先、出来るかもしれない、という一つの具象として描くこと。
「こういうことがありましたよ」と、ただただ真摯に謳うのみだ。
自分の瞳の端にも掠めたかも知れない、人影の物語。
だからこの物語は単純な悲劇では終われないし、時代を悪しざまに批判するものでもない。

争い、理不尽、暴力への憎しみは、
いたいけなすずさんの姿を映して当然心に芽生えるけれども、
それはまた大切な別の契機として、心のどこかへ持ち帰ればよいと思う。

ところでこれは偶然知ったことだけど、『この世界の片隅に』のタイトルは英訳されると

  『In this Corner of the World』

となるらしい。監督がそのようにしたそうだ。
記者に質問された際、『In the Corner of this ...』と言われて訂正したという。
つまり、「この」は「世界」にかかるのではなく、「片隅」の方にかかる、と制作側は考えている
(原作者の意向が反映されているかはわからないが、監督の原作へのほれ込みようを見るにつけ、
相談はされているだろうと思う)。
だから、より限定的に、日本語的にタイトルを言い直せば、
『世界のこの片隅に』が、言葉としては厳密かつ的確になるのだろう。
「どこをも中心、どこをも片隅と捉え得る、球状をした世界のあまねく片隅」ではなく、
「『この』東の果ての日本の、広島・呉という片隅」ということが強く主張されている、
と考えた方が良い、というメッセージだ。

しかしそれはあくまでもすずさんという女性の人生を思ったときのことであって、
この作品を見た私たちは、誰もが自分の帰るべき片隅に持ち帰って欲しい、という広がりを、
合わせて謳っているように思う。

すずさんの得たものが唯一解でない用に、
「this corner」はあまねく個人の視線の先にあるthisであってよいと、
そう言っているように、オイサンには思えた。



……と、ここまでが総論。
ここからは各論というか、オイサンの好き勝手な話になっていくので
(ここまでは好き勝手じゃなかったつもりか)、
一旦ページを改めます。


ほなまた。オイサンでした。続く。




 

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