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2017年7月 9日 (日)

■ボギー、調子はどうだい?~映画『勝手にしやがれ』を見る~はじめてのゴダール~ -更新第1134回-

土曜日、本厚木で映画を見てきた。
ジャン・リュック・ゴダール監督の『勝手にしやがれ』。
1960年の古い映画です。


▼勝手にしやがれ



本厚木の小さな単館でリバイバることをたまたま知り、
『押井言論』の中で押井監督が何度もゴダールの名前を出していたので、
勉強のために見ておくかと思った。ゴダールの名前くらいは知っておったし。
小島監督の話にもしょっちゅう出てくるし。

この作品は、ゴダールのヌーベルバーグの旗手たる地位を確固にした作品で、
つまるところ、当時としては斬新な手法をふんだんに盛り込んで撮られた映画だということだ。
自分は映画小僧でもなんでもない年に何本も見ないマンなので、
そんな歴史的なコトを言われてもふーんってなものだが。
その斬新さを体感するためには、これ以前のさらに古い映画を何本か見ないとならないだろう。
が、前知識を入れておいて、大体なにが新しさなのかを探しながら見ていた。

映画の細かいことはwikipediaでも見てもらえばいいとして、
その新しい手法は、実行するのが特段難しいものでも、思いつき難いものでもないように見えるのだが、
ゴダール以前の映画人たちがどうして思いつかず、取り入れられなかったのかということが
目下の興味だ。

  マそれを知るには、今度は、
  当時の映画の文化的な位置などについて勉強せねばならないだろうけども。
  その辺は知ったところで何かに使えるとも思えないからあんまりやる気はない。

映画の内容自体は分かる部分と分からない部分が半々くらい。
このテの映画になると、こめられるのはメッセージなどという生易しいものではなく、
作り手自身の思想や哲学、人生観、
言うなればエゴ全般が鉛の立方体みたいに非常に不親切にゴトンと置かれてるだけみたいなもんで、
いちいち読み解くなどというまだるっこしいことをしなくても、
何となくは心に染み入ったり、割り込んだり、時にはそれで頭蓋骨をカチ割って
脳みそに置き換わろうとしたり、してくる。
なんともエゴエゴしい、ドヤ感とかいう騒ぎではない「こんにちわ、僕です!」感に満ちている。
腹は減らなかったが歩き方が変わる、くらいのものだった。
十分に面白かった。

一個の作品として、面白いな、と思ったのは、
主人公がどういう人となり(年齢・職業・出自など)なのかがサッパリ分からないまま、
現在地を起点にある時間までのことがトクトクと語られるところだった。
なるほどこういうのもアリなのだな(それは多分新しい手法でも何でもない部分だが)、と
楽しんで見られた。
映画というのは自由なもんだな、と思ったが、
書き物でも多分同じことが起こっているし、やってもいいんだとは思う。
マ都合の良いところだけをうまいこと使えればいい。
要は思い切りだ。
短編を描くときには良いように思う。
ただ自分がやろうと思ったら、
「その前も後も書いた上で真ん中だけ抜いてくる」みたいなことをしないと自分が不安になりそうだ。

音楽は少しうるさメだったが、画面が白黒だったこともあって穏やかに見られた。
主人公が、警官を殺して自分が追われていることも知りながらパリの町でのうのうと暮らし続け、
しかも人を騙したり、車を次々に盗んだりという悪事を繰り返す様子は、
先ずリアリティとしては理解しがたいのだけど、
それとて、舞台である当時のパリの風俗を知らねば到底リアリティなどは語れない。

あとあと気付いたんだが、
この作品は、まだテレビが無いか、一般に普及していない時代の話なのだな。
広報・ニュースの配信手段が、ラジオ、新聞、
街頭のメッセージネオン(アレなんて言うんだっけ……)しか登場していなかった……と思う。
テレビとネットと携帯電話はおろか、
なんなら固定電話だってそうそう自由には使い難いくらいの世相であるようだ。
情報伝達の、即時性も拡散性、秘匿性が現在とは次元が2つ3つ違っていることに気付くのに
かなり時間がかかった。
しかしなるほど、となれば、犯罪者が街に潜むことなどまだまだたやすく、
主人公がそうしていたように、多くの犯罪者は町なかを大手を振って歩いていたのかもしれない。
情報伝達の質によって生じる意識の違いたるや、どうやら想像を絶する差であるようだ。
会ったこともない人は自分のことを知らず、
自分も自分の目に見える範囲のことしか知りえない世界というのは、
正直、自分でもかなり想像しがたくなっている。

そうした情報の即時伝達拡散性の高い・低いによって、
社会の常識やありよう、認識がこうも変わってくるのか!
……ということが、一番の驚きと発見であったように思う。
作品の本質と全然関係ないところで感動してるんじゃない。

作品そのものの話に戻るが、
確かに今の映画でもあまりお見かけしないような手法、
たとえば映像がジャンプしてしまうような編集の仕方であるとか、
役者が完全にカメラ目線でカメラに向かって独白するであるとかも確かに見受けられた。
そういうエキセントリックな場面に行き当たるとハッとしはするのだが、
これらがまるで無かった時代に、評価されたことがすごいなと思う。
監督の死後にとか、一部に評価されたとかでなく、
リアルタイムで公に賞を与えられるほど受け入れられ、評価されたことがすごいなと思うし、
ということは、
新しいものが出てきたことを多くの関係者が喜んだのであって、
進取気鋭の風が業界全体に吹いていた土壌や風潮があったのであろう。
そのことが素晴らしいと思う。

  しかしまた、それならなぜ、コレをやる人が、先に、他に出て来てなかったんだろう???

「実験的な作品として、
 一部ではもてはやされ喜ばれるものの、大多数である伝統派・保守派から邪道・異端扱いされ、
 のちにフォロワーが増え、監督の死後とかに「思えばあの作品が歴史の転換点だった」
 みたいな形で評価される」
というのが、お定まりの……そして自然なパターンだと思ったのだが。

公開直後から名誉ある賞を取り、ヌーベルバーグの旗印とされるほどだった、と聞くと……
当時の映画界の皆さんは、従来の映画に退屈していたのではなかろうか、
という邪推が働いてしまう。


■心情・心象的な感想

話が、技術や歴史的な方向にばかり向いてしまった。

とまあ、以上のようなエキセントリックな面や歴史的な意味での隔絶もあるので、
なんの摩擦もなくすっと映画の世界に入り込むことは出来なかったのだけど、
半世紀以上も前の映画であるにも関わらず、
最後には気分よく、すこし歩き方が変わってしまう程に映画の世界に入り込んでしまった。

当時の……なのかどうかは、コレまた歴史の話なのでワカランけども……
破滅的な男の美学というのか、これもまたペーソスなのか、
男性の根源的なかなしみの如きものが、
上澄みの方は透明感にあふれてスタイリッシュに、
底の方にはズクズクと深い緑色をしてたまっていて、
最後には知らず知らずのうちにその入り口までは連れてこられてしまう、という出来上がりに感嘆。

そのスタイリッシュなことに徐々に惹かれていき、
撮り手の厚いエゴにも触れ、
最後にはかなしみの澱に飲まれる。
軽薄であるが故に渡れるはずだった比重の重い沼を、
やがて自分の比重が上回っていたことに気付かず、沈み込んでいくような感覚。

あの沢田”ザ・スタイリッシュ”研二が
「男がピカピカの気障でいられた」とその時代への憧れを歌ったほどの時代の話である。
そうあるためには、携帯電話やテレビを消し去ることが必要になってくるのだろう。
悪が気安く町に暮らせるような時代であることが、そのための一つの条件であったように思う。
それを超えてしまって人々すべてが同じ情報基盤の上で広くモノゴトを同時的に共有できるようになると、
オスが個としての居場所と心を失い、
メスと卵のために働くだけの存在なるのは、きっとアリや蜂の世界と同じなのであろう。
人間はボチボチ、ようやく、蜂やアリの社会に追いつこうとしているのかも知れない。
これから先は、文字や言葉も必要としない、
分泌物と社会的ニューロンによる伝達の世界が始まるのではないだろうか。


▼沢田研二 勝手にしやがれ



▼沢田研二 カサブランカダンディ

「ボギー、あんたの時代は良かった」という歌詞が出てくるのはこっち。


悪事を働く男がカッコいいとか、だらしのないことが男の本懐であるとか、
そういう浅い部分の話ではなくて、
生き物社会の仕組みとして、男性はいくらか自由であることが望ましいとされている
(そうして「渡り歩く」ことが多様性を生んだり繁殖的に効率がよかったりする)反面、
社会からは自由を抑圧されたり制約されることを求められる、
そんな狭間で押しつぶされたり綱引きしたり、なんでしなきゃなんないんだ、
どっちかに決めてくれよ! っていうね、悲しい叫びみたいなことですよ。

そんな人生をどう納得して閉じていくのか……
そのテーマはきっと、昔よりも難しくなっているんではないですかね。
わかんねえけど。

しかしどうなんだろ、これを撮った当時、ゴダールは20代後半だったというけど、
その年でそういうかなしみに、実感を以て向き合っておられたものだろうか?
マ当時の三十路は、今よりは大人だったかもな……。


■余談~Closing

ゴダールの名前に引っかかったのは、実は最近また『押井言論』を読み返していて、
その中で何度も名前の出てくるヴィム・ヴェンダース監督のことも頭にあったからだった。

で、ヴェンダースについて調べてたら、
奇しくも堀江敏幸センセイの短編『アメリカの晩餐』で引かれていた『アメリカの友人』も、
そういえばヴェンダースによって映画化されていたんだっけと思い出す。
『パリ、テキサス』と一緒に見てみようと思う……が、
中々レンタルでは見つからんな、『パリ、テキサス』。

あと、オイサン、ヴェンダースと誕生日が一緒だった。
わーい(うれしいのか)。
 
 
 

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