2017年3月19日 (日)

■花よりも花の如く、光陰よりも矢の如く。そして…… -更新第1117回-

オシゴト帰りに新宿エキナカの本屋さんに寄ったら、
『花よりも花の如く』の最新刊が出ていた。
16巻。


  

  こっちで試し読みもできるっぽい。
  http://www.s-book.net/plsql/slib_detail?isbn=9784592210061


『花よりも花の如く』は、現代に生きる若き能楽師・榊原憲人が、
能の世界を通じて、人の世の悲喜こもごもを味わいながら、
能楽師として、人間の男として、なんとなくいい塩梅になっていく物語です。

  「成長」とか言わないぞ。そんな安っぽいモンじゃないんだ。

デまあ話の中身はいいんですが(いいのか)、
その新刊の帯に「成田美名子先生、画業40周年!」とアオられている。
1977年デビューというから……
なんと、オイサンの生まれる前から原稿用紙と格闘していらっしゃる計算になります!

  ……すみません、いまシレッとウソを書きました。
  オイサン生誕の2年後からですね。オイサン暦2年からですね。
  O.C(オイサン・センチュリー)2年。
  なんでウソついたんだ!(ドン!!

しかし40周年とはなかなかスゴイいキャリアですが、
お生まれは1960年と言いますから、17歳からマンガ描いてんのか……。スゴイな。
花とゆめコミックスの単行本なんで、ガッチガチの少女マンガでありまして、
作風も、昨今の、少年・少女の垣根がかなり取っ払われた感じになる以前からのものでありますが、
まオイサンは小学校低学年の頃から『パタリロ!』なんていう
当時の少女マンガの中でもかなりアグレッシブなものを読んでおりましたし、
それ以降もナンヤカンヤ触れて負ったのでそこらへんに抵抗感はない。

  『ぼくの地球を守って』とか『動物のお医者さん』とか『ここはグリーン・ウッド』とか、
  まメジャーどころばかりですが、ガッツリと読んできました。

    


成田作品に触れたのは、大学1年か2年の頃、当時活動してた演劇部の女子のお友だちから、
「これ面白いよ!」と借りた『CIPHER(サイファ)』が最初だった。

  『CIPHER(サイファ)』は、N.Yに暮らす双子のアクター、
  ジェイク・ラングとロイ・ラング(=サイファ)がある確執から袂を分かって暮らすようになり、
  それまで一心同体のように生きてきた二人がそれぞれの道を歩むようになっていく、
  というお話。今読んでも最高に面白いです。


  

オイサンも当時はクソみたいな男子大学生らしく、
そのマンガを貸してくれたコを憎からず想っておったりしたものですから喜んで読んだのですが、
コレがまあなんというか、非常に不思議な面白さでした。
先が気になって仕方がない!!
……という類の、面白さではない。
引き込まれるとか、そういうんではないけれども、
……なんかこう、人物が常に自分のそばに寄り添っているような、
向こうの世界にいるままこちらにもいる、みたいな面白さでした。
フィクションならではの刺激的な面白さよりも、
「ちょっと上質な現実」とでも呼ぶべき、
あらゆる感情を丁寧に丁寧にブラッシングしてあるような肌触りの良さが際立つ感覚がある。

その後も、『ALEXANDRITE』(アレクサンドライト・『CIPHER』のスピンオフ的な続編)や、
完全新作の『NATURAL』も成田先生の作品として読み続けてきたのだけれども、
やはりどれも強い引きや動機を生む作品ではなかったので、
なぜ連綿と読み続けてきたのか、途中でやめなかったのか? は、
今にして思えば少し不思議ではある。

しっとりとじんわりと、とても面白いのにストレスがなく、
読めば確実に、何か一つの真実に触れることが出来るという確信が、
どこかにあったのだろう。
思えばそれは、ゆうきまさみ先生の作品と似た感触である。

オイサンが成田先生作品に触れたのが恐らく大学1年か2年、18、9歳の頃で、
1995年前後のはずだから、約22年。
こんなオイサンでも、先生の画業のうち半分にはお付き合いしていることになる。


■ずっと俺のターン

にしても40年、22年か。
オイサンも今年は42になり、両親はともに70を超える。
マそうして考えると……あまり口にしたくはないコトだが、
両親もあと、10年? 一緒にいられるかどうか。
おられれば御の字、
生きているのに特に具体的な不安はないけれども、
たとえ明日突然そうでなくなったとしても、神様に向かって正面切って文句がつけられるような年齢ではなくなってきた。
神様にも「イヤお前そりゃそろそろ年齢だよ」って言われても……グウの音も出ぬ。
そのくらいの年齢かなあ、とボンヤリ考えてはいる。
何もしてはいないけど。

そーなってくると不思議なモンで、
次に自分の番が回ってくるのも案外あっという間だな、なんかをやり切るほどの時間はないな、
……と、思ってしまう。

ここ最近を振り返ってみると、10年なんてあっという間だったなあと思うワケで、
……マその「10年のはやさ」が本当かどうかはあとで考えるとして、
真実だとするならば、
自分に過ぎる10年も、両親に過ぎる10年と同じようにふりかかってくる。
つまり。
オイサンもあっという間に50になる。
50になってしまえば、60もきっとすぐだろう。
そしたらもう、アレですよ。
いま自分が両親に見ているように、いつこの世を退場してもおかしくない年齢までもすぐだ。
そうか、自分もすぐに死んじゃうんだな、と、春の日の、うららかな陽気の散歩の中で思ってしまった。

しかしここでさっきの問題、
「10年は、本当にそんなに早く過ぎ去ったのか?」について考え直してみると、
丁寧に振り返れば……案外、そうでもない。

振り返り方の違いで、随分と印象が違うことが分かってきた。
ある特定の点のことだけを振り返れば確かに昨日のことのようだから、
すっごくあっという間だったように感じる。

『アマガミ』が8年前! と思えば、うそっ! と思うほど早いけど、
『アマガミ』以前には知らなかった人たちとのことや、
『アマガミ』から今まで、どれだけたくさんの場所へ行き、どれだけ自分が変化してきたかを思うと、
そこにはやはり、長い時間、細やかな刻みが存在していたことが感じて取れる。
たくさんのことがあった。
たくさんのことをしてきた。
ブログを始めてからも、まだ11年しか経っていないことを思えば、
10年というのは、やはり案外長かった。
これから先の10年も、きっと色んなことが出来るだろうし、いろんな場所へ行けるだろう。
色んなものも、書けるに違いない。
まあ、自分が頑張らないといけないけど。

  そーいや、忘れてたけど、『アマガミ』も3月19日が発売日だから
  ちょうど8年なのね。



■人の時間、内臓の時間。そして、光の時間

あとそれに、これから先の10年が、これまでの10年と同じ速度で流れるのか?
と言われたら、きっと違うのだろう。
正しくは、時間が均等に流れる……らしいけれども、
自分がその流れを拾う速度と精度が下がっていくから。


物理的に……というか、生理的・病理的に、感覚器の性能がガクンガクンと落ち始め、
同じようにインプットが出来るとは思えない。
そういう兆候は既に出始めている。
それはつまり、主観的には時間のクオリティが下がるのと大体同じだ。
鈍った時間が流れていく、と考えた方がいい。
衰える体の感覚器が、一つのことを拾うにも時間がかかるし、
拾ったものの精度も決して高くない。事実から遠く離れていることも起こりうる。
その隙間を、記憶や経験で埋めようとするから、主観とバイアスに染まった風でしか、
捉えたり考えたりできなくなるのだろう。

  はなから目や耳で物事を考えないで、
  数値で頭にしまい込んであればそんなこともないのだろうけど、
  なかなかそうはいかない……
  そう考えれば案外、目や耳が不自由な人の方が、
  若い時と年を取ったときの衰え方の差が小さかったりするのかもしれない。
  どーなんだろ? イヤ、いま適当に思いついただけだけど。

マその分、年を取るとコレまではまともに見えなかったものも見え始めるから、
これからの時間がただのレッサーバージョンかと言われればそんなこともないけど。
若い頃に見えていたものが見えなくもなるので
±ゼロだとは思うけどね。難しいものだね。

イヤハヤ、
若いうちは正しい・事実に近いインプットが行われるのにインプットされたものを正しく処理することとが出来なくて、
年をとれば今度はようやく正しく処理が出来るようになるのにインプットも回転も悪くなる。
人の言う「全盛期」とは、その両方のバランスが取れている本当に短い時期のことをいうのだろうな……
なんていうことも、ようやくわかるようになってきたワイよ。

自分としては、インプット装置が多少トンチキこいて、
アウトプットするものが公平・公正・均等でないイビツなものでも、
自分にとって、そしてそれを喜んでくれるごく少数の人たちにとって輝かしいものでさえあってくれたらば
十分満足なので、あんまり困らないけども。

ただ、やはり勢いはなくなるね。
エンジンが弱くなる。
人間、大部分はかなり下っ腹で動いてるな、と思わされる。
内臓は随分モノを考えているなあと実感するし、内臓の衰えは実感する。。

アインシュタインさんの考えた相対性理論によれば、
時間の流れの速さは絶対の一定ではなく、
唯一絶対に一定であるのは、光の速度だけ、ということのようである。
すべての基準はそこにある。
時間が流れていることを前提に生きてる私たちからすると分かりにくいと思うが、
つまりその考えに則るなら、

 「光は1秒間に地球を7.5周できる」

のではなく、

 「光が地球を7.5周するのに(停止した状態からみて)かかる時間を1秒とする」

と表現するのが正しい、ということのようだ。
時間の流れているのが前提の世界に光が走っているのではなく、
光が走っていて、かつそれよりも移動が遅い、あるいは静止している連中がいるから、
相対的に時間というものは発生する、という考え方……というか、世界を正しく理解すると、
どうやらそうなるらしい。
だから、光そのものが感じている時間経過はゼロになり、
それから遅れるほどに時間というのは流れていく、ということのようだ。
つまり、じっとしているモノより、
走ったり飛んだり、早く動いているモノの方に時間の経過はより緩やかにもたらされる。

なのでもしかすると、全身の細胞を光速で振動させることが出来れば超長生きできる……
のかなあ? と、バカなオイサンは思っている。

  イヤ、ちょっとコレ、考え方が正しいかは分からんよw?
  文系にも分かるように書かれた本を読んだ限りそんな感じっぽい、と思っただけだ。

勿論、基準が光速だけに、多少早く動いたところで計上される時差なんモンは
所詮誤差にしか過ぎないんだけれど、
それでも、
それでもだ、
誤差にしたって差は差であって、
それによって1秒の何千何万、何百万何千万、何億分の一でも、
自分が時間のくびきから自由になれる。
そう思うと……。
別に長生きをしたいワケではないのだけれど、
「いま流れる時間を少しでも緩やかにしたい」
と、思わないではない。
いまを緩やかに生きたいと願うことと、長生きをしたいと思うことは、決してイコールではないと、
オイサンは思う。

花よりも花の如く、光陰よりも矢の如く、
そして、ゆび先よ。願わくば、心臓よりも心臓の如くあって欲しいと切に願う。
文字を書くにせよ、シャッターを落とすにせよだ。



■Closing

話が、冒頭から随分違ってきたので引き戻そう。

成田先生の作品は、昔から、老人でも若者でも親しめるテーマを扱っていたように思う。
『アレクサンドライト』が若干テーマが若くてリキリキした生命感・躍動感にあふれ、
『NATURAL』も、テーマは普遍的だけど表現の仕方・舞台と人々がヤングで若い人向けの傾向はあるけれど、
どれも、内臓の力が多少落ちても無理なく楽しめる作品群であるように思う。

いまの自分には、過去を基準にした時間の尺度しかないなあと感じるのだ。
昔に比べてどうだこうだ、
昔に比べて何が得られて何が失われる……と。
それはきっと、結婚して子どもがいたりしないので、
未来に対して前向きに何かを測れないから、なのだろう。
「未来、如何様にあれかし」と願う、抽象的な目測が出来ないでいる。
過去に比べて何かが失われた時間に希望を見いだせない。
「(何かが失われはするけれども)こんな輝かしさが得られているであろう、
 得られているに違いない未来の時間のために、アレをしよう、コレをしよう」
と考えられていない。

ひとりでいるということには、どうもそういう効果があるらしい。

そんな目線でいるから、自分の時間の残りの少なさ・流れる速さばかりが目に付くが、
丁寧に測り直してみれば実際はどうやらそれほど少ないわけでも無いようだし、
インプットも、その処理の仕方も、まだまだ色々やりようがあるのだなということが、
なんだか確認できたように思う。
成田作品には、やはり普遍的な何かがある。

大学時代、自分は結局演劇部をやめてしまって、
『CIPHER』を貸してくれた女の子ともすっかり疎遠になってしまうわけだけれども、
そうした大切な時間がブツ切れにちぎれた後にも、
成田美名子作品というなかなかに深い足跡だけはしっかりと残ってしまった。

  演劇部は、なんでやめちゃったんだっけ……? あまり覚えてないな。
  キッカケになったような出来事は確かにあるんだけど、
  それも最後には大きな影響になるようなモノではなかったし、
  どうしてあそこまで凹んでやめるに至ったのか、当時の心境や経緯はよく思い出せない。

……。

どーなんだろ、あれから20年が過ぎた今、
あの子はまだ、成田作品を――『花よりも花の如く』とか――
読んでいるだろうかなあ?

どう思います?(しるかそんなもん)

 
 

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2017年2月26日 (日)

■沢の踏み跡~SS・アニメ『ヤマノススメ』より~ -更新第1112回-


      ※2017年3月5日修正

 お漬け物屋のお婆さんは、桶から出したばかりのたくあん漬けを、いつもの通りに良い塩梅のサイズに切ってくれ、一度ナイロンの袋に入れて口を閉じ、それをさらに、しゃりしゃりと手触りの紙で丁寧にくるんでくれる。その包み紙には、「漬け物舗 さわ乃屋」とお婆さんの名からそのままとったという屋号が、落ち着いて品の良い薄藍の地に白抜きで刷られていた。
 包みをお釣りと一緒に受け取りながら、
「もうじき、お店を閉めるのよ」
と聞かされたとき、ここなちゃんはうまい言葉を返すことが出来なかった。
 この駅から少し外れたスーパーの小売店街にも昔はぎっしりとお店が入っていたが、いまでは空いた床が目立ってきた。家具売り場の売れ残りみたいなソファが置かれただけの休憩所や、フードコートの出張スペースとして無理に埋めている場所もある。スーパー全体の全面改装にともない、テナントの入れ替えをするのだそうだ。
 そうなることがなんとなく分かるような気もしたし、やめないでほしいと言えるわけもないから、そうなんですか、としかここなちゃんには言えなかったのである。

 残念だとか、寂しくなるとか、もっと気持ちはあったはずなのにと家で夕飯の支度に手を動かしながら考えて、ご飯のとき母にその話をしたら、
「そうなの? 残念ねえ」
とすんなり言われてしまった。自分には、まだそんな部分も足りないのだなあとおかしな感心をしつつかじった地味な色のたくあんは、少し水けを多く含んで、しんなりしているように感じた。


    *      *      *


 三日が経って、またお漬け物の残りが少なくなってきた。ここなちゃんは、先に家を出た母に
「お買い物、私が行こうか?」
と学校へ出る前に自分からメールをし、学校が終わればそそくさと、よく回る足を、スーパーへ向けた。

 お店はまだあった。改装がまだ先なのは知っていたから当たり前だったのだが、そのことにほっとして、いつもと同じたくあんと蕪を少し多めに、そして安心ついでに白菜の浅漬けと、なすときゅうりの糠漬けも足した。
「そんなに慌てなくても、お店を閉めるのはまだ先よ?」
 ころころ笑うお婆さんに言われ、ここなちゃんは初めて、自分が切羽詰まった顔をしていたらしいと気が付いた。と同時に、お婆さんのその言い方が、店の未来の確かさを物語っていることも、十分に理解できた。

「続けることも、まだ出来るんだけどねえ」
 夕刻のスーパーは買い物客で賑わっていたが、小売店街へ足を延ばす客の数は限られている。その客数に合わせたように、お婆さんはのんびりした手足の運びで、クリーム色の大きな糠桶から野菜を取り出しながら話した。
 スーパー側からテナントの入れ替えを考えていると聞かされて、いくらか考えたあとに自分から手を挙げた。体やこころにまだはっきりとした不安は感じてはいないから、何か明らかな理由とか、いま困ったことがあるのかと問われたらなんとも返しようがないと言う。

「ただねえ、色々と、色々なことを思うと、ここらが潮時かなと思ったの」
「色々」

 おうむ返しに呟いて、ここなちゃんはまた「そうなんですか」と、お婆さんの言葉の奥にしまい込まれたほぐし切れない出来事を、そのままの形で胸に収めた。
 桶から体を起こして一度からだを反らす、その腰は確かに少し曲がって見えるし、振る舞いも緩慢ではあるが、山でだって、それよりもっとゆったりしたお年よりを見かけることは珍しくない。だからここなちゃんには、お婆さんが店をたたむことが余計不思議な気がしたし、心配でもあった。

「そうだ。ここなちゃんはお得意様だし、糠床を持って帰る?」
「え? いいの?」
「もちろん。よかったらだけど。じゃあ、ちょっと待っていてね」
 自分でお漬け物を漬ける。試みも考えもしなかったことだが、山での遊びや保存食作りと通ずるものを感じて、深く考える前に返事が口を突いてしまっていた。
 やはり緩やかな足取りで店の奥へ戻っていくお婆さんを見送ると一人になった。小売店街の客足の少なさがしんと小さな肩にしみる。こうして話すうちにも、この店へはおろか、隣の花屋や和菓子屋へもひとりの客の影もない。「だから」なのだろうかと思ったとき、ここなちゃんの脳裏に一つ、よみがえることがあった。

 小学校の授業で、町の歴史を調べたことがある。スーパーができる以前のこの辺りは商店街とも呼べないような小さな店が軒を連ねる区域になっていた。そこに大型の店舗が建てられることになり、元あった商店のいくつかは店をたたんで、残る店は条件を優遇されてこの小売店街に入れることになったのだ。先生に連れられてお店の人の話を聞いたり、班に分かれて図書館で調べものをしたりしたのを、ここなちゃんは憶えていた。テナントとか、優遇とか、当時の自分たちにはわからない言葉ばかりでその意味するところまでは理解出来ずに終わってしまったが、いま改めて見渡すと、花屋も和菓子屋も、客がなくとも慌てる風でもない理由が少しはわかる……。

 奥から戻ったお婆さんの手には、みっちりと、いかにも重さの詰まった風合いの糠の袋が抱えられていた。
「お待たせさま。はい、重たいから気を付けてね」
「ありがとう」
 それを実際受け取ってみると凝縮の程は見た目よりもはるかにまさっていて、力の加減を誤り、前のめりにふらついてしまった。
「わわ」
「あらあら、気を付けてねえ。あのときに比べたら随分大きくなったけど、やっぱり女の子ね」
 お婆さんは笑い、ここなちゃんもばつの悪い笑みで応えながら、あのとき、と言われ――校外学習で、この店を訪れたときのことを心に呼び覚ましていた。


    *      *      *


「どうしてお漬け物屋さんになったの、ですか?」
という幼いここなちゃんの質問は、思い返せば、町の歴史を紐解くという目的から少し外れていたかもしれない。お婆さんもうまい答え方を見つけるまで時間をかけていたように思う。出てきた答えも要領を得ない、なんだか難しいものだった。
 お漬け物を拵えるのが、お婆さんの家の役割だった。周りの家からの評判も良くて、となりや、そのまたとなりの家の集まりからも請われることが多くなった。さらにその評判を聞きつけて、また……と繰り返していくうち、遠方からも求める人たちがやってくるようになったのである。

「それで、いつの間にかお漬け物屋さんになったのよ」

 ここなちゃんを含めた子どもたちは、ええと、とどう捉えて良いやら心で傾げた首を無理やり縦に振り、担任の先生だけが、困ったような顔をしてうんうん浅く頷いていたのをここなちゃんはなんとなく覚えている。漬け物屋という職能者への確かな成り方や心構えは話の中では脇役で、一つかみほどの選択と、当たり前のような責任感がぼんやりとあり、いわば時代の空気に押し出されるように、糠との暮らしが選ばれて残ったという話だった。お婆さんにしてもまだ口にしたくないいいきさつや、言い表し難い事情もあったに違いない。
 それよりも、お婆さんが話し終えた後のやり取りの方を、ここなちゃんはより鮮明に覚えていた。

「ごめんなさいね、あまり参考になることが言って上げられなくて。あなたは、お漬け物屋さんになりたいの?」
「ううん、ちがいます!」

 クラスの友だちが大笑いをし、お婆さんも笑い、先生がここなちゃんをたしなめて頭を下げていた光景、あのときはなぜ笑われてしまったのか分からなかったけれど、いま思い出すと、ここなちゃんは顔から火の出る思いがした。自分が何を言ったのか、手の中でぐっと重みを増した糠床が、肩と背中を引っ張って、まるで自分に手をついて謝れと要求しているようにさえ錯覚する。
 そうして頭が真っ白になってしまった幼いここなちゃんは、逃げ出すように次の質問をしてしまった。

「お、お婆さんは、ずっとお漬け物屋さんなのですか?」

 改めて考えるまでもなく、何を聞きたい問いだったのか、いま思い返すと尚のこと分からない。それまで漬け物屋だけを続けてきたかを問うたのか、或いは、この先もずっとなのかと?
 不可解な質問をどう受け止めたのか、それでもお婆さんは丁寧に、
「そうね、私が元気なうちはそうかしら。子どもも孫もいるけれど……。これは、私のお仕事だもの」
と、そっと、先のことをさりげなく括った。


    *      *      *


「あ、あのときは、本当に……」
 まったく、なんということだろう。あんな幼い日の、過ちとも呼べない素直さの招いた勇み足が、まさかこんなタイミングで再び火を噴くなんて思ってもみなかった。ここなちゃんは自分の無邪気さを呪って頭も下げられずもじもじしていたが、お婆さんはころころと愉快そうに笑って、いいのよ、あれは勿論冗談だもの、とやさしかった。
「だからあのとき、ふたつ目に答えたことも本当。誰かにあとをお願いしても、きっと困ってしまうでしょう?」
 これ以上ないくらいに似合う、袖口がゴムになっている割烹着の腰を一度ぐっと逸らせ、気持ちよさそうにいくつか息を吐いて、やがてまた背中を丸めた。
「残念って言ってくれるひとには申し訳ないけれど、あたしはもう十分」
 最後の言葉の本当の意味は、ここなちゃんにはやっぱりまだ難しい。けれどもそれも無理をして、ハイ、と飲み込み、伏し目がちに頷いた。
 お婆さんはその賢さも見透かして、最後にもう一つ、
「まだしばらくはお店にいるから、上手に漬からなかったら聞きにいらっしゃいね」
と、付け加えることを忘れなかった。


    *      *      *


 そのひと月後、ここなちゃんは山で道を間違えた。
 山が近場で、さほど高くもなかったのが逆に災いした。珍しく母が「職場の人から聞いてきた」と言った湧水を汲むついでのハイキングがてらで行程を組み、遅めの時間に出たものだから、中盤からあとに向かうことになる水場への道で時間を食ってしまうと、もうリカバリーが効かなくなってしまったのだった。そのおかげで、水汲みという目的を果たすのが時間的に精いっぱいになってしまい、山頂を踏むことが出来ずに終わってしまったのである。
 メインの登頂路から一度離れ、水場へ向けて沢の流れに行き当たったとき、踏み跡が残っていたからそちらだと思い込み、安易に沢に沿って登る道を選んだのが間違いだった。それは、以前は確かに水源へと続く旧道だったのだが、いまは落石によって封鎖されており、本当は沢を一旦渡った先から進むのが正解の道筋だったのである。

「印を立てておかないと、また誰か間違っちゃいますよね」

 ようやく沢の分岐まで帰ってきたここなちゃんは、丁寧に、今しがた自分が付けてしまった誤った踏み跡の旧道に横木の通せんぼをかけて呟くと時計に目をやった。往復で二時間近くを失って、ここからまた水を汲みに向かったのちに本来の登山道へ戻っていたのでは、山頂を臨むころには日が傾き始めるだろう。

「今日はもう、仕方ないかな」

 山では、どうしても一人ごちることが多くなる。意を決して、などと大げさな話でもない。今回は水汲みを優先して、山頂はまた来週にでも再挑戦すれば良い。なにせ、塩分を補給するためのお漬け物には事欠かない身分になったのだ。
 あの翌日から、早速、漬物舗・さわ乃屋謹製の糠床でトライし始めたここなちゃん最初のお漬け物の玉砕の仕方は、実に地味なものだった。とりあえずのお試しで、たくあんをひと月かけて漬けたのだが、お茶漬けの種にしてもまだしょっぱ過ぎる有り様の漬かり具合だったのである。その塩気は保存食としては優秀だが食卓での活躍の機会に乏しく、冷蔵庫の中でのんびり寝かされているうちに、今回の登山の機会が訪れたのだった。
 湧水の広場へ向かう道を、道誤りでくたびれた膝を持ち上げてざくざく進む。道は先ほどの旧道より格段に険しかった。ごつごつと岩だらけの沢を左手に見下ろすくらいの角度で登っていく。果たしてこれで本当に水源に辿り着くのか、このまま山頂へ行ってしまうのではないかと不安になるほどだったが、山の道は面白く、沢は小さな滝を何段か経て道の高さに追いついて来、やがて合流した。
 道の最後は、垂直の岩壁が頑として立ちふさがる行き止まりになっていた。手がかり、足がかりはあるから登れないこともないだろうが、普通の登山客があえて進むような代物ではない。その壁の、地面から二メートルほどの高さより上のところどころから水が湧き出し、なぜ形作られたのか分からない、受け皿のように突き出した岩に一旦溜まってからちょろちょろと細く落ちている。
 ここが沢の水源だ。きっとどこか、この山の上か、或いは離れた高山に注いだ雨や雪が押し積もり、逃げ場を失ってここから染み出ているのだろう。ここなちゃんは早速荷物を下ろして五百ミリの小さなボトル二本に水を受け、それが終わると自分もその傍らに腰を下ろした。拭ってもまた汗がこぼれてくるのでまた拭い、汲んだばかりのボトルの水に口を付けて、崖と木々に囲われた空を見ながら時間を計算した。そして膝の上に、山頂で広げるはずだった弁当を広げた。
 旧道では、徐々に心もとなくなる踏み跡に疑念を抱き始めた頃まんまと巨きな石に道を阻まれ、明らかにおかしいと気付いて引き返してきた。それでもまだ、道が道らしい形を残していたから辿ることが出来たのだ。きっと自分のように、定期的に迷い込む者があるのだろう。はじまりにあの道を踏んだ誰かは、やはり先にあるであろう、沢の水源を目指して足跡をつけたのかしら? 分からなかった。それとは違う、彼だけの、彼女だけの目指す場所があったかも知れない。ああして通せんぼをしておけば、さすがにもう迷い込む者も減るだろう。人の通じなくなった道はやがてかたちを失い、最初の目的も、その目的が失われたいきさつも覆われて、余分な憂いからも解放される。

「これは、私のお仕事だもの」

 タッパーに入れたたくあんをポリポリかじると、時代に押しこまれてつけた踏み跡は行くところまで行き着いて、わけもわからないまま誰かに譲ることは出来ない――そう清々と笑った、皺がちな顔が浮かんでくる。どれだけ時間をかけた暮らしだったのだとしても、その道筋の値打ちは自分だけのものなのだと、まさか幼い自身の拒絶が彼女に気付かせたなどとは思いもしなかった。
 ボトルの水は、あっという間に飲み干してしまった。いちいち汲み直すのも面倒で、受け皿の岩から落ちる水を手ですくって直接飲んだ。ひたすらに染み出し、流れ続ける沢の清水は、掌の中でたくさんの光を閉じ込めて柔らかく揺れ、無味という名の味がする。その揺るぎの無さの中では、失敗作だった筈のたくあんもポリポリと十分に美味しい。自分が漬けたものだと思うと、自然と笑顔がこぼれた。
 目を閉じても光の滲んでくる瞼の奥の薄暗闇の中で、ここなちゃんは沢の流れる音を聞き、このあと辿ることになる、下山ルートのことを思い描いていた。




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2017年2月19日 (日)

■すてきなRestart~『けものフレンズ』OP ようこそジャパリパークへ!感想~ -更新第1111回-

2月も半ばを過ぎて、少しずつ寒さが和らいできてしまった。
一昨日に吹いたのは春一番だったというし、
あの心身ともにざわつくような陽気には参った。あれに来られると疲れが酷くなる。
今年もいよいよ冬が終わってしまうのかと思うと憂鬱になる。
自分はつくづく冬が、寒い季節が好きなのだなと実感させられる。
とはいえ、この冬は長かったように感じる。
というか、深かった、というべきか。

そんな、寒さが終わろうという頃にもかかわらず、
『けものフレンズ』がアツい。
さばんなちほーだから、ではない。さばくちほーだから、でもない。
「足の裏に毛が生えているから、砂が熱くても大丈夫」という問題でもない。

マ物語の先読みや裏読みは、そういうことがお好きで得意な若手フレンズの皆さんにお任せして、
老人のオイサンは通常営業、
すっかりこころを掴まれてしまった『ようこそジャパリパークへ!』の歌詞について、
思いを深めていきたいと思う。


▼『けものフレンズ』主題歌「ようこそジャパリパークへ




……つっても、「シンプルでいい歌詞ですよね」というくらいのことだけど。
グッと来た歌詞の部分だけ引っこ抜くと、


  ♪  ほらね君も手を繋いで だいぼうけん!
  ♪  Welcome to ようこそ、ジャパリパーク! 今日も ドッタンばったん おおさわぎ!
   ♪   (中略)
  ♪  はじめまして きみをもっと知りたいな

   ♪   (中略)
  ♪  Welcome to ようこそ、ジャパリパーク! 今日からはどうぞ よろしくね
  ♪  いつもいつでも優しい笑顔 きみを待っていたの

   ♪   (中略)
  ♪  どこまででも つづいてく グレートジャーニー

  ♪  ランランランラー ランランランラー Oh, welcome to the ジャパリパーク
  ♪  ランランランラー ランランランラーランラ あつまれともだち
  ♪  ランランランラー ランランランラー Oh, welcome to the ジャパリパーク
  ♪  ランランランラー ランランランラーランラ すてきなたび立ち



……とまあ、こうですよ。
なんかもう……なんでしょうね? すごい普通でしょ。やさしい。
『ごちうさ』が、「かわいいだけのアニメである」ことを完全に研ぎ澄ませて
オンリーワンにまで上り詰めた
のと同様、
『けものフレンズ』は「やさしい」ことを研ぎ澄ませているように見える。
世知辛いヨノナカ、右を向いても左を見ても、お前の経済的価値はなんなんだ
「ほんで、おまえはナンボになるんや?」みたいなことしか問われない世の中で、
これだけナンモナシで、
「よく来てくれたよぉ、待ってたゆぉ、紅茶のむぅ?」
みたいに優しく迎え入れてくれてしまったら、そりゃもう世のオジサン涙くらいでますわ。

  マ正直なところ、オイサンは人間のフレンズは少ないマン(かなしいヒーローだな)なので、
  アナタトワタシ、トモダチトモダチ、ナカマナカマー
  と人から迫られたらNoNoNo, No Thank youとジェスチャー全開で後ずさりですが、
  この作品の世界観の中で唱えられる「ともだち」「フレンズ」は、
  そういうニュアンスとは異なるものになっていますね。
  人類愛というか、生物愛というか。
  おっ? お前さん、生きてるね? 嬉しいねえ、みたいなことです。
  分かりやすいですね。
  分かりませんか? 分かりませんね。 分かれこのやろう。 ← フレンズ減の原因


いっこいっこ詳しく見ていきましょう。
……気が進みませんか?
それでも気にせず見ていきますので、気が向いたら先に進んで下さい。


  ♪ 手をつないで だいぼうけん!

早速いいですね。
「『手』をつなぐ」ということの「小ささ」と「大冒険」の対比がすごくいいワケです。
手をつなぐことは大変小さなことですが、
「大冒険」という壮大な広がりの中でその異質な小ささ、些細な「抵抗」は、
却ってこう、その行為に大変な密度を予感させもするのです。
そこに凝縮されたエネルギーの構図が感じられ、
この一節だけで、アニメ本編におけるかばんちゃんとサーバルちゃんの結びつきの強さが際立つのです。
いいですか? 際立つんです……際立つったらキワ立つの! 際立て!!(命令)

  際だて!さーばるちゃん!(ラノベ)

……マ正直な気持ちとしては、
物語開始初期の時点では
「パークの中で図書館まで行くだけの話で、『大冒険』は盛りすぎだろ……」
と、オイサンも思いましたが。
ここンとこワリと大冒険っぽくはなっているのでよしとする。


 ♪ 今日もドッタンばったんおおさわぎ!

のところも……やはり当初は「いや大騒ぎはウソだろw」と思って見てました。
だって1話、2話の頃って大騒ぎと呼ぶには物足りないような、
大変ほんのりした、のどかな旅路だったのですもの。
普通に行く、という感じで。
3話あたりからは、関わるフレンズの数も増え、アクションも大掛かりになってきたのでアレですが。

マそんな嘘かホントかはサテおいて、なかなかこう、
イマドキの物語作品においてこの「ドッタンばったんおおさわぎ!」というフレーズを
バッチリ使いこなすのは、大変に勇気のいる行為だと、オイサンは思います。
自分で書いたら、……否、記す前の思いつきの段階で、

  「……。ねえな」

と思って消してしまいそうです。
それをオーイシマサヨシ氏は、恐れずに見事に使い切っている。すごいと思う。
ド肝を抜かれますこの胆力。
揶揄してるのではなく本当に、
「作品にとって正しいから、古臭く見えてもこの言葉で良いのだ」と踏み切るのは
大変な勇気と知性が必要です。
この、一見使い古されてダサいワードのポテンシャルを完全に使い切る力は
いっそスタンド能力と言ってもいいくらいだと思いますよ。


 ♪ はじめまして きみをもっと知りたいな
 ♪ ……
 ♪ ララララー ララララーララ あつまれともだち

 ♪ 今日からはどうぞよろしくね
 ♪ いつもいつでも優しい笑顔 きみを待っていたの


いくつか時系列をすっ飛ばしてまとめました。
この辺の「受け入れ力(ぢから)」の強さは……
無論、受け入れられた先にやさしさが約束されているからこそ
歌の言葉を素直に受け入れられるワケでもありますけれども、
マその辺は、ひねくれて、おのれの心の孤独に生きるオイサンのような者には、
現シ世では手に入れ難いものなので、尚のこと手の届かない宝物のように映るのでありますよ、
エエ。
心の歪んだ年寄りのタワゴトだと思って見逃がしてくだされィヨボヨボ。
現世……「うつしよ」とは、鬱シ世でもあるなあ。

大概、受け入れられた先には、受け入れた側の身勝手な都合と過剰な期待、
利害が待っておりますから、
なんというか、受け入れる側になった自分の姿としてお手本にしたい、
憧れの姿であることです。


 ♪ どこまででも つづいてく グレートジャーニー
 ♪ ララララー ララララーララ すてきなたび立ち


……なんていうんですかね。
"グレートジャーニー"は、アフリカで発祥した人類が世界に拡散する旅路を表したことばですが、
この言葉を聞くとき、たいてい「人間がここまできたこと」の結果としてのニュアンスが、
語られることの大半を占めるワケです。結果としての旅路の話として。
しかしナンダ、今回この歌を聴いて初めて、
ああそうだった、そういやそれってまだ続いてんだなと、思い至ったわけですよ。
シメの歌詞も「すてきな旅立ち」ですからね。

……実際のところ、『けものフレンズ』の物語において、
かばんちゃんの仲間(要するに人類)が本当に絶滅した存在なのかはまだ分からないけども、
もしそうだったとして。
かばんちゃんは、唯一生き残った……否、新生のチャンスを得た人間として、
フレンズたちとこの先、どんな関係を築いていくだろうか?
現生人類と同じ「まちがい」の道をたどるだろうか。

  「まちがい」と書いたけど、
  別にいまの人類とフレンズの関係すべてが完全にまちがっていると言っている、
  ワケではないですのでその辺オマチガイなく。
  どこかは合ってるし、その分どこかはまちがってる、くらいの捉え方をしたい。
  マ大方間違ってる気はしますけど。

地球の、自然界という愛の輪から逸脱してしまった現生人類が絶滅した後に、
かばんちゃんはいま一度「フレンズ」たちとフレンズになってやり直すために新生した、
再出発の人なのかもしれない。

  ……て言うか、フレンズはあくまでも「フレンズ」であって、
  『けものフレンズ』の世界でも、
  ジャパリパーク以外の場所にはフレンズでない普通の動物もいるのかしら。
  フレンズたちは普通の動物とどうふれあい、
  かばんちゃんはジャパリパークの外の世界でどう生きるんだろう……。
  その練習のために滅びた現生人類が用意した練習の場なのかもなあ。

かばんちゃんの目覚めは、人類の再出発なのかも知れぬ。
それを「すてきな」ことだとしたのはもう、
作詞者・オーイシマサヨシ氏のやさしさとしか言いようがない。

……マ個人的には、『けものフレンズ』をそういう壮大ゲなもの、
テーマを大上段に構えたエラそうで面白いモノとして考えたい気持ちはあんまりないです。
ひとえにここちの良い、気楽なものとして持ち続けたいんだけど、
オーイシマサヨシ氏が、何かを思い描いてビジョンにこめたのだとしても
とてもよくわかるし、素敵だと思う。

進化の結果の事実としていまこのようにある人間が、どこから来たのかはサテオキ、
いま何を持っていて、何が足らず、
この先それをどう使い、どのようにまわりと関わりあって、どちらへ向かおうとするのか……
そんな思いの途上に現れたゆめみる箱庭、
それがジャパリパークなんじゃないかな! たっのしー♪


■よだんフレンズ

余談だが、グレートジャーニーについて改めて調べてたら、
GIANTのラインアップに同名の車種があるの見つけて欲しくなってしまった。
10万か、うーむ。(どこまでいくつもりだ)

  ▼GIANT グレートジャーニー [GIANT]
  http://www.giant.co.jp/giant17/bike_select.php?c_code=CA02&f_code=FD02&s_code=SR15

ランドナー、他にもカッコイイのとか軽いのがあるなあ。

  ▼自転車旅行におすすめのランドナー・スポルティーフ15選を紹介します。[NatureDrive]
  http://cycle-japan.com/randonneur/


『けものフレンズ』を見る
   ↓
『ようこそジャパリパークへ』の歌詞についてふかく考える
   ↓
"グレートジャーニー"について復習する
   ↓
同名の自転車を見つける
   ↓
ちょっと前にもあった、ランドナー欲しい熱が再燃する ←イマココ


マそんな感じでヒトツ。

『けものフレンズ』は、見ていて気持ちよくて、確かに楽しいのだけど、
そろそろ「なんで面白いのか」は分からなくなってきた。
面白い、楽しいというか、見ている間中ひたすら嬉しいのだった。
あ、始まった。嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい
嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい
嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい
嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい終わった。

……で、30分終わる感じ。
脳のどこかが開きっぱなし、出ちゃいけないものが出っぱなしになっているような気はする。
昨年の冬に『おそ松さん』が女子の間で大人気になったのもオイサンの理解からは外れていて
(『おそ松さん』自体は面白くてオイサンも楽しく見ていたけど、
「女子にキャーキャー言われるような人気の出方をして、それが爆発的に持続する」のは
  やはり説明を付けて自分を納得させることは出来なかった)、
えらく困惑したものだけど、今回のはそれを超えている。
いや、超えてはいないのかもしれないけど、自分もその熱狂の渦の中にいる分、
ワケの分からなさを体で味わっている。

OPラスト


  ♪ ララララー(ララ!ララ!) ララララー(ララ!ララ!) Oh, Welcome to the ジャパリパーク

(ララ!ララ!)が嬉しくて、胸が詰まってしまうくらいなのだから、
やはりなにか良くない塊を投げつけられて、当たってはいけないところに当たっているように思う。
困ったものだ。
あと残り半分のうちに、どうにかその正体を言葉にしたいと思う。


「サファリ」という言葉も意味をよく知らないなあと思って調べてみたら、
アラビア/スワヒリ語で「旅行」って意味らしい。
普通のことばだった。
信州へサファリに行きたいとか、京都サファリしたいとか言えるのか。
ときめく。

温泉サファリしたいオイサンでした。

 
 

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2017年2月18日 (土)

■頭文字H~イニシャル・エッチ 花と性愛の頃~アニメ『セイレン』感想 -更新第1110回-

『けものフレンズ』でバカみたいなことばかり言っていた反動か……
『セイレン』が気になってきた。
あの地味さが、妙に。

3話から見始めて、4 → 5話まで見たところで1話に戻ってきた。
1話、いいですね。

『アマガミ』の続きのような位置付けになっていたせいで、
なんとなく主人公を、正当なるザ・紳士の血脈のつもりで見てしまっていましたが、
嘉味田くんは……真面目っ子なんですね。
そのことに気付くのに結構時間がかかってしまった。
飛びぬけてファニーな発想の持ち主でもないし、性癖にも特殊過ぎるほどの特殊性は見られない。
将来に不安を抱えているだけの、何なら若干おとなしいくらいの、
いじられやすい真面目っ子だった。

その代わり、際だって異彩を放つのは輝日東という生活空間の異世界感w
住む人や町並みこそ現実の日本だけれど、
パンダココアに始まり、
茶巾寿司定食が大人気だとか、
昆布のりうどんとか、
お化け屋敷スゴロクの内容と、それで平然と遊ぶ高校生、
カブトムシの話で盛り上がる担任にシカ育成SLGと、
食べ物を中心に、娯楽、人のちょっとした気質など、
広々とした世界の中で、文化のはしばしに尖りが配置されていて
心の落ち着く接地点がひとつもないw

異様な細部を積み上げた結果、見える風景はざっくり同じに見えるのに、
足元がグラつくようなエキセントリック加減。
面白い世界観の作り方だったんだなあ、と感心してしまった。
そういう肝心なところに背骨のズレがあるから、人間の行動が一種異様でも
「そういう気質・慣習で育ったひとたち」という理屈が納得材料になる。
面白いこしらえ方だ。

そこで本筋の話になりますが。
御大高山の、哲学みたいなものには共感できるんです。

男の子はエッチな心根から恋をするものなんだということを、
御大高山は謳おうとされているように思われます。
変化球ではあるけど。

そして、女の子も女の子で、男の子とは違う目線というか、
女の子なりのなまなましさのエッチさで、恋という行為や思いにアプローチしてくる……
ただその生々しさは、あくまでも男である御大高山ご本人の目線で読み取られたもので、
かつ、
彼の青春時代(というと語弊があるが、つまり性的に最もリキリキムラムラしていた時分)のものだろうから、
今のリアルな女の子の物とは違うかもしれない……。
そこを伝達しやすくするためにエロ……性愛の、殊に猥雑で劣情を催す表現には手練手管を尽くして
エキセントリックな表手法を試みてくるけれど本質はそこにはなく、
ひとえに
「男の子も女の子もエッチなんだよ、エッチで恋をしていいんだよ」
ということを、清潔感でコーティングしながらもムラムラとした艶やかさ、妖しさで描いてくる。

  しかし、清潔感とは書いたもののこのマンガ、先にも書いたような独特の世界観、
  というか生活文化感、一線を画した生活感を備えているがために、
  古びた温泉街のような不穏な、生活の汚れた空気が漂っている気がする。
  埃っぽさと、湿り気過剰のかび臭さというか。
  温泉街の裏通りみたいな猥雑さがある。
  閑話休題。

OP主題歌からして、その傾向は見て取れる。
「キミの花」。
直球だ。

▼キミの花 奥華子



ここでいう「花」を、特段エロいニュアンスだけに特化して解釈するつもりはない。
もっと普通の、可愛らしかったり、華やかいだり、
はかなげだったりするものとしての意味も十分に含んでいる。
しかしそういう様々なニュアンスに包み隠し、
受け手が「花:のことを「おしべとめしべでエッチな教育に使われるやーつ」であると知っているのを利用して、
ほんのりとエッチさを差し出してくる。

  ところで御大高山が「花」をよく使う印象があったのだけど、
  そんなことなかったな。
  『アマガミSS』の森島先輩編のEDのカップリングの「花」が妙に印象に残っていただけだ。
  森島先輩編のED曲をいま改めて聞いてみたけど、下手だな。

オイサンはもはや童貞っていうレベルではなく童貞だから、
つまり、


  ♪ 逢うたび君を好きになって ちいさな手に触れたくて


っていう「ちいさな手に触れる」悦びさえロクに知らないモンですんで、
なかなかその辺の「恋を、始めからエッチなものとして喜ぶ構え」を実感として納得するまでに
時間がかかるんだけども、一旦腑に落ちてくると、
それこそ童貞だものだから、若い悦びや興奮は大変よく共有できる。
多分いまでも、女の人の手を握ったらちょう緊張するしドキドキできる自信ありますしね。
フフン。 ← 得意になるところが違うぞ
その、「(男の子が)ちいさな手に触れる」悦びのエッチさ、
別に手を握ることなんかいわゆるエッチでもナンでもないんだけども、
肉体的な接触の入り口のところで興奮してるってことはやっぱり明らかにエッチなわけで、
「性愛の良さに日を当てる」みたいなことを、
ご自身の実感ある言い方では伝わらないから、
御大高山は手を替え品を替え、
ワキを替えヒザを替えヘソを替えしてどうにか語ろうと、
いまのヒト向けに通じる変換アダプタを探している。

抑え込んで抑え込んで抑え込んだ、
爆発しえないムッツリなエッチさ、一人でいる時でさえ発揮し切れないエロの空気を、
あの作品のカタルシスのなさは、すごいいい感じに表現しているように思えてきた。

なんなんでしょうねあの人は。やはり、一種の天才なんでしょう。
こんな焦らしプレイありますか。
スカートの奥から汗が一筋、フトモモを伝っておりてくるのを
お前らは黙ってそこで正座して待っとけ! みたいな、
はいサーセン! みたいな、
そういうんですよ(どういうんだ)。
マわかんねえけど。
そういうものに見えてきたよ。
まあ絵描きっていうのはそういうトコあるのかも知れませんね。

だもんだから、そういう主題から逸れた枝葉の部分……
例えば、主人公たちがプレイするゲームの内容とかは、
エキセントリックでこそあれ、あからさまに適当に仕上げてくる。
枝葉であることの強烈な主張であるように捉え得る。



……と、そんなことを考えていたら、
「地味に映るのも当然か」という気もしてきた。
エロを表現するのにストイックになる、というアンビバレンツ。



OPのサビが妙に頭に残ったので気になって繰り返し聞いているうち、
なんだか楽しい、良い作品であるように思えてきました。

まテンポがあまり良くないなとか、そういう風に感じるのも確かなんだけど、
このぬったりとした「ズレ」、不快な違和感の世界でなければ表せないモドカシサでもって、
狙ってなにかおかしなことを実現しようとしているのかもしれません。
アニメ、マンガ、ゲームの世界が陥った、分かりやすすぎる記号やあからさまな刺激から、
少しずつでも軸足をずらせて行こうという気持ちが……あるのかもしれない。

  例えばそれは「ビッチ」っていう生態のリアリティであったり。
  なかなか、ギャルゲーのフォーマットでは歓迎されないその生態を、
  なるたけ「いいもの・魅惑的なもの」として持ち込もうというスタンスとか。

彼の描き出すあの繊細な線
(悲しいかな本作ではその芸の線が画面上に顕現することはなさそうだが)が本来描き得る、
線と線の行間ともいうべき気持ちを、
そういう空気を生み出すことで代替させようとしている。

  けどね、オイサン、御大高山の絵が生き生きとするのって、
  静止画だと思うんですけどね。止まった絵、一枚の絵。
  だからゲームの『アマガミ』の、
  ほぼ究極とも言える「止め画を超細やかに動かす紙芝居」は、
  御大高山の画を生かす最も正解に近い御業だったと思いますよ。
  エエ。掛け値なしに。すごかったもの。

というわけで、『セイレン』は、
何かを失敗していまの様になってしまっているのでも、
やろうとしていることを何かに阻まれてああなのでもなく、
ああでなければ表現しえないものなのではないだろうか?
イヤわかんねえけどさ。
けど、その様に「読む余地がある」という可能性は残されているし、
そうでなかったとしても、
じゃあ自分がそれをやろうとしたときのための引き出しとして使えるものを拾えた、
という意味で大変OKです。

そんな可能性を見出すことが出来たので、
ちょっとこの先もそういうポジティブな目で引き続き眺めて行こうと思う。

あと、常木さんのお友だちの一人、髪の長い子は可愛いですね。
アタマちょっとオカシイしw
「私、ポルノ漫画家のサイン欲しいッ!」
って、すごい勢いで言うなw いいよ君。光るものを感じる!
郁夫君も、特段おかしなことを言わない普通のアタマいい男の子でびっくりしました。
この先馬脚を現すのかもしれないけど。
郁夫君のフツーさ、とても好感度高いです。
「元祖尻軽」こと、彼のお姉さんはどうしてるんでしょうね。
相変わらず適当なことを弟に吹き込んでるみたいですが。


作品世界の中を歩くうち、
こういう奇怪なエッジにちょっとずつ肘やらヒザやらをひっかけてほつれていき、
最後には丸裸にされているのかもしれない。

あとこのアニメ、3ヒロインにしか焦点当てないご様子ですな。
残りは……別メディアかしら。
なんにせよ、この作品の好感度を自分の中で上げることに上手いことこ成功したので、
続きがあるなら楽しみにしよう。

最後まで、うまく騙しおおせてくれると嬉しい。



オイサンでした。


 

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2017年2月12日 (日)

■この素晴らしい、ジャパリパークで語りたい! ~2017年1月期・アニメ感想 -更新第1109回-

こんばんわ。
『レコラヴ』で、いよいよ反町っちゃんのスカートの中が映せるようになってしまって
終始前かがみのオイサンです。

大したことない画なのにやっぱりスカートの中を覗くってだけでこうふんするなあ……。
反町っちゃんも、嬉しそうなのがけしからぬな。

途中までは、新体操小学生であるところの妃月ちゃんと仲良くしてたのだけど、
一発目がJSってのははどうなんだってんで、そこそこ打ち解けた雰囲気だった
同クラの反町っちゃんに乗り換えたものの、
しかし反町っちゃん、
打ち解けるにつれて関西の訛りや気質が飛び出す頻度が上がってくるため、
仲が深まるほどにときめかなくなってくる、という
なかなかのツンデレスパルタン番長。
いま恋愛レベルが5なんですけど、
そのうち

 「ぱんつ録らしてー」
 「はいよー(たくし上げー)、これでエエ?」
 「あいおっけー。明日もよろしくー」
 「オツカレサーシター」


みたいになってっちゃわないか心配(どんなギャルゲーだそれは)。
そんなワケで、最近はもっぱら、ときおり現れる御前さんが気になっております。
御前さんのスカートの中録りたい(目的が違っているぞ)。

本当のコト言うと、一番美少女・一番好みだなあと思うのはまひろちゃんなんですが
如何せんこのコはこのコで「がぶがぶ~」とか言って噛みグセがある、
というキャラを持たされた堕天使
完全に病気の子なのでアカンです。
オイサンはもうね、そういうギャルゲー然とした子じゃなくて、もっとまともな子が良い。
ギャルゲーじゃなければそんな病いを背負わされることもなかったろうに……。



■2017年・1月期 アニメ感想



カオスですなー。カオス。
マ『けものフレンズ』がいることでカオス感が増してるだけだけど。
ケイオス(なぜ言い直した)。

尚、オイサンの視聴ルールとして、
 ・まったく予備情報のない作品は3話から見る。
 ・原作を知っている、継続作品(2期~)であるなどの場合は1話から見て良い
としています。

これは、
 ・1話目はダルい。(背景説明やらが多い・キャラ紹介的側面が強い)
 ・近年、OPが省かれる(或いは話の最後に回される)場合が多く、テンションが上がらない
 ・順序が分からなくとも面白く見られる作品が本当に面白い
  (自分が見たい面白さを備えている)作品である

……という、強引な経験則と信念に基づいた結果であります。異論は認めない。
それではそれを踏まえて参りましょう。
今期はねアナタ、豊作ですよ。



 ▼『けものフレンズ』

なんかしらんが、やたらと「闇が深い」ことで、ある意味今期の台風の目となってる。
なんでだよw

  ……と書いてしばらく放ってあったら、
  ものの一週間で普通に今期の台風の目アニメにのし上がっていた……
  何が起こっているんだ……。

 ▼公式PV その2
 


ほぼ人間(の女の子)の姿をしつつさまざまな動物の見た目や性質を持ったたくさんの「フレンズ」と、
自分に関する記憶を失った、この世界で唯一人間である(ようだがまだ正体が明らかになっていないわからない)
「かばんちゃん」が、
フレンズのすみかである、サファリパークの様に色んな地形や風土のエリアを備えた
「ジャパリパーク」を冒険するおはなし。

オイサンも、1話から若干の違和感を感じつつ、
それでもワリカシ普通の気分で見始めたのだけど、
TLではなぜか妙に人気テンションが高く、
見た目のトーンの明るさに比して「闇が深い」と評判である(それは高評価なのか)。
……いや、いまや「評判であった」と書いた方がいいか。
もうなんか、そういう理屈の部分から解き放たれた盛り上がりを見せ始めている。

  ……まオイサンのTLは、オイサンが自分の好みで選り集めた方々なので、
  似たような、ケッタイなものを選り好みするのも当たり前と言えば当たり前なのだが。

思えば、この教育番組のような内容で妙にひきつけられるものを感じさせる辺り、
一種の闇が潜んでいることは疑いなかったワケだが。

作画的にはトゥーン調の3Dで、際立ったハイクオリティとは言えない。
ローでもないけど、文句を出させない必要最低限、といった風情。
ボイスも、一部ベテラン勢はおれど、妙に棒読みなフレンズさんが目立って素人くさい印象。
物語展開もあるようでないようで、非常にまったりと進行する。
にもかかわらず目が離せない、というか、見ていてすごいクセになる。

現時点のキホンセンは
「かばんちゃんの正体を知るために、ジャパリパークを横断して図書館へ向かう」
で、そのために川を渡ったり、サファリバスを探したり、山にのぼったり。
その過程で、出会うフレンズ(動物)の特徴が描かれ、
且つかばんちゃん(人間)の知能が際立つ、という、なるほどなあという構成。
面白いのは、動物の特徴を知ること以上に、人間の特質や知能の高さの素晴らしさが際立つことだ。

この「人間がいない」成分に闇アニメ大好き勢が食いついて、
「人類滅亡後の世界では」みたいな、深闇論が展開されている。
マいいんだけどさw 楽しそうに盛り上がってるしw
そして4話まで見たところ、実際そんな感じっぽい。まじでか。
別段そういうストーリーラインでも構わないが、
かばんちゃんとサーバルちゃんは(勿論他のフレンズも)、
最後まで仲良し笑顔でいてもらいたいものです。

最後には多分、かばんちゃんはやっぱり絶滅種のヒトであることが判明して、
ぼくは独りぼっちなんだろうか……と凹んだところへ、
周りのフレンズに「ヒトだってフレンズだよ!」と励まされる、
さらにそこへサンドスターの新たな噴火でかばんちゃんのつがいになる相手が生み出されて、
これからまた仲間が作っていけるよね!
……みたいな、しっかりハッピーな展開を希望するオイサンです。

アライグマのアライさんが、かばんちゃんを「お宝」とも呼んでいたりしたので、
恐らく絶滅種であるヒトには、なんらかの値打ちが見出されているのでしょう。

画や声の絶妙なつたなさがいい方向に作用して不思議な可愛さがあるし、
見ているうちに脳みそがどんどん溶けていきますね……
たのしー! すごーい!
……などとどんどん語彙が欠落し、IQ低下を引き起こす現象も「フレンズ化」と呼ばれ、
専門家(もちろん『けものフレンズ』研究のだ)の間では深刻化が懸念されているご様子。

とにかく相方のサーバルちゃん含めたけもののフレンズの皆さんが、
ポジティブというか、きわめて無邪気に全肯定の方々で、
「すごーい!」
「たのしー!」
「かばんちゃんは考えるのが得意だから!」
「みんなとくいなことちがうから!」
「いいフレンズに違いないでありますよ!」

と、とにかく相手を責めない。
人間の土俵でない場所で、人間でないものに人間である長所を認められ続ける、という
恐ろしい承認快楽の発生装置になっているご様子。
見ていてとにかく、気持ちが良い……麻薬の様だ。
ツチノコさんだけは妙に手厳しかったけどw
あのツッコミは好きだった。

OPも、

  ♪ Welcome to ようこそ ジャパリパーク!
  ♪ 今日もドッタンバッタン おおさわぎ!


だの、

  ♪ ランランランラーン ランランランラーン welcome to the ジャパリパーク
  ♪ ランランランラーン ランランランラーンランラン あつまれ友だちー


だの、ヘンに幼い歌詞でまとまっているのに、妙に頭を離れない。
『月刊少女野崎君』のOPを手掛けていたオーイシマサヨシ氏の曲なのだが、
この辺は狙って統一された意志でやっているのだろか……。
吉崎観音氏(コンセプトデザイン)って、こんなに狙える人だったの?
尚、監督も吉崎氏も、オーイシ氏も、今の本作の当たり具合には困惑しているご様子。
まあ無理もない……。

自分がケモミミ好きなわけでもなく、
キャラクター描写が飛びぬけて可愛いわけでもないのに、
なんだかやたらと可愛く見える『けものフレンズ』……
君も、よろしくない瘴気渦巻くジャパリパークでドタバタおおさわぎしてみないか!? Σm9
気は進まないと思うが! Σm9

 ▼オーイシマサヨシ「君じゃなきゃダメみたい」
  
 ついでに。しかしなんだこのサムネイルは。歯ぁ磨けよ。



 ▼『このすばらしい世界に祝福を2!』

2期目なので1話から見る。
えー、OPがカンペキでした。EDが最高でした。以上。
劇場版1本分くらいの満足度のある、完全なるOP。
クエスト一本分を、各キャラの特徴を生かしながら描き切るという力作、近来稀に見る良OPです。

  かの名作
 ジブリ実験劇場『On Your Mark』に勝るとも劣らないMV
  となっております。(ホンマか)。

 ▼エンディングのPV こちらも素晴らしい曲。
 

前奏~タイトルバックでバカみたいにテンション上げて走る4人も大好きだし、
チョイチョイ挟まる脱力ダンスも愛おしい。
90秒しかないOP中で、
ダクネスが爆発への期待と焦れにクネクネと身を躍らせるさまに5、6秒も割いているのは
最早愛のなせる業としか言いようがなく、
もうパッと見「コレ作画崩れじゃないの?」と思えるほどグダグダに溶けて描かれているのも
ここで以て
「本編内での作画溶けも、意図的なものですよ、手抜きじゃないですよ!」
と宣言しているものであると見れば、ある種、匠の手技と言えよう。

そんな中でも、見せ場ではかなりのかわいさ・りりしさを保って描かれるめぐみんは
やはりひいきされている気がする。

1話目の内容としては、
ダクネスにこんな立場的アドバンテージ(カズマ・3人への貸し)を持たせてしまって大丈夫なのか?
と思った。
……マこの3人がこれを借りだと思うようなマトモな神経を持っているとも思わないけど。
3話まで見たけど、本編的なテンションは、まだそこまで上がっていないように思う。
彼らに求められている面白さは十分に達成している、とは思うが、
期待値はもうワンランク上だ、頑張ってくれ。



 ▼亜人(でみ)ちゃんは語りたい

OP・EDともにハイレベル。特にEDの切なさがいいかな。

ドタバタに見えて、どちらかというとしっとり成分の方が豊富な作品。
穏やかで、静かな間をつー……っと引っ張る時間を結構長く感じさせて、
終わってみると30分がすごくながい、高密度な印象を受ける。
切ないよね。面白いです。
ドタバタるときはドタバタるけど、印象としてはドタ2、しっとり8くらいかしら。
かなりの湿度を誇る作品。いいぞ。

原作にはノータッチ。ウケているのは知っていたが、イマ一つ手を伸ばせずにいた。
題材的に、青春の孤独、みたいなものを描くのかなと思いきや、
さらに一歩踏み込んだところまで行きそうな予感があって、1話終了時点では先を見るのが怖かった。
けど、2話目はさわやかだったから、マ安心して良いのかもしれない。
必要以上にギトギト・ノタノタはしなくて済みそう。晴れやかに終わって欲しいな。

あと、この作品の中で語られている亜人(デミ)は、
亜人という定義よりも、むしろモロにモンスターだと思うんだけど……どうだろう??
まあ、エルフ、ドワーフあたりがデミで、
ライカンスロープ(獣人)はデミじゃないのかと言われたら微妙で、
そこからさらにバンパイアとかに派生してしまう気持ちは分からんでもない。
けど、デュラハンはさすがにどうなんだと思うし、
サキュバスは明確に悪魔だろ!
……なんていう議論は、既に出尽くしてるんだろうから
敢えてオイサンが一周遅れて言うべきことでもないと思うケド。



 ▼『南鎌倉高校女子自転車部』

原作を知っているので1話から見る。

……。

ねえ、なんで「フィクションで自転車に乗る女の子」は、
こんな人様に迷惑カケホーダイの物を知らないポンコツばっかりなの?
作劇をさぼってるとしか思えないこのテンプレぶり。
少し恥じなきゃいけませんよ……。
とはいえそれは原作由来成分なので、アニメ化関係者に罪はないのでしょう……
けれども、あまりにも「ひでえ」と思ったら、そこは改変したっていいと思いますけどね。
「つまんないから変えました!!」
っていうやつがいたっていいと思うよ。

原作が、あまりマンガ的に上手でなく(原作disってばっかだな、マいいか)、
レースをやるんだけどその状況がすごく伝わり辛いもので読んでいてあまり面白くなかった
(そして途中で買うのをやめた)。
アニメの力でその辺が伝わりやすく描かれることを切に望む。

けど、自転車のハナシって、なんかこう……無理がある話を、
話づくりのためにあまりにも平気でやる気がしていて、全体的に印象が良くない。
学校行く前に乗る練習とか、のってちょっと走っただけでやたら大げさに喜ぶとか。
立ちこぎが出来ただけで大はしゃぎとか。
どーもその辺が、見る視線がヒンヤリしてしまう原因である気がする。

乗れてちょっと走れただけで「アタシ、どこまででも行けそうな気がするッ!!」
ってなる流れ、高校生にもなってもうチョイどうにかしませんか。
中学まで何やってたんだよお前、って思うけれども、
しかし、
目に余る老齢ロードバイク乗りとかが量産されている背景には、
そういう「何かが極端に出来るようになった間違った全能感」が
その過程で与えられることに因って起こっている、のだと考えれば……
この
「ロクに何もしてこなかったポンコツJKが
 初めての成功体験に酔いしれてワガママ放題し始める」
というテンプレートは、あながち間違ったものではないのかもしれない。

冷静に分析しとる場合か。
えー、女の子が可愛い自転車のアニメです。
あと鎌倉とかが舞台です。



 ▼『小林さんちのメイドラゴン』

3話から見る。
……のにもかかわらず、開始1分半で心を掴まれてしまった……アバン30秒、OP1分なんだけど。

OPサビで、モブい人たちが竹トンボのように回転しながら空を上がっていく絵があるのだけど、
なんだろうか、そこで毎回、ちょっぴりホロっと来てしまう。
初めて見たときもその画を見た瞬間
「あ、これはホームコメディなんだ」と理解して、嬉しくなってしまった。
なんなんだろうこの感覚。

1・2話を録り逃してしまったので3・4話しか見られておらず、
トールさんとカンナちゃんがなぜ小林さんの家に来たのかわからないけど、
困らないで見られるのが素晴らしい、
けど、どうして来たのかすごい気になるのもスバラシイ。
「困った奴はいるけれど、悪い奴はいない」という安心して見られるフォーマット。
画は安心の京アニクオリティ。
監督が、あの永遠の京アニナンバーワン大ヒット作品『氷菓』の武本カントクなので大安心。

……ただ、この感覚は、
「きれいにコヂンマリまとまり過ぎてて、見ている間はほっこり楽しいのだけれど、
 終わった瞬間スカッと忘れてしまうヤツ」
の匂いがプンプンする。
「アーオモシロカッタ、ハイツギ」のヤツ。
どこかで良いフックが生まれてくれるといいのだけれど。

あと、小林さんは、『けものフレンズ』のカバンちゃんと合わせて、
今期の2大性別不明人物に任命します(不名誉)。
女性……だよねえ?
あと、カバンちゃんは男だと思ってたんだけど。

 ▼fhana / 青空のラプソディ - MUSIC VIDEO
 
 オイサンはfhanaさん大好きです。結構CD買ってるよね……。


この原作、アクション連載でクール教信者先生だったのね。
言われて見ればなるほどだけど、なんか意外だった。
fhanaの歌はいいよね。



 ▼『ガヴリール・ドロップアウト!』

2話目を録り逃して3話から見る。

TLでワリとよく名前を見かけ、かつ好意的な反応だったので期待値ちょっとだけ高めで見てみたけど、
普通だった。
ポジション的にはあのヘンに近い。『三者三葉』ら辺。
舞台やキャラ仕立てとしては、
 ・現世に降りてきた(降ろされた?)天使と悪魔の交流
 ・ダメ天使といい人悪魔
っていうのはありきたりというか予測の範囲内なので……まあ、普通かなと。
ロゴが好き(どこを褒めてるんだ)。

後追いで1話を見たが、1話はなかなか面白かった。
んーでも、このあと1話以上に面白くなっていくという希望は薄メな感じ。



 ▼『セイレン』

えーと、一応書く。
『アマガミSS』の時も思ったけど、地味。地味です。
おとなしいとか、穏やかとか、落ち着いている、とかではなくて、地味。
もう一歩間違えると「ダサい」「野暮ったい」になる。
地味。
そしてテンポや演出が洗練されていないのだと思われる。
専門家ではないので具体的に正しい指摘が出来る気はしないけれど、
カット割りと画角の切り取り方が良くないんじゃないだろうか、と、
素人考えで言ってみる、がどうなんだろう。

画が、見せたいもの、表現したい感情に対して、非常にぼんやりしていると思う。

音楽は良いと思います。
が、画的なテンポの悪さに引っ張られて印象に残らず、
音楽は音楽だけ聞いた方が映える、という、それはキミいったいどうなんだ、
という状態に陥っている気がする。

見始めたのは3話から。3話・4話を見た。
案外、ストーリーとしてはキライじゃない感じ。
良いと思います。
ヒロインの思考回路は乗り切れないところがあったけど、
その辺は高山御大一流の「ビッチ(尻軽)」理論に当てはめれば、実感としてはつかめなくとも
理解はできる。
そういう意味では筋が通ってるし、物語の地味さは、リアルというか、
共感出来る範疇にあると思うのだけど。

……なんだろうね、これが制作陣の意図したところであって、
「狙った通りに作れている」というのなら特に問題ないと思う。
「考えていたことが、形にしてみたらつまんなかった」っていうのは
まだ救われるんだけども、
見ていると、
「考えた通りに作れていない」ように見えるので、
そこは大丈夫なんだろうか? と心配になっている。
お金なのか、時間なのか(マこの二つはどうにかしてもらわないと仕方ないけど)、
コミュニケーションの問題なのか……まあハタから見た妄想に過ぎませんけどね。
なんだろうか、モヤモヤするなあ。

放映前から、『アマガミ』との世界観とかキャラの連続性をちらつかせて
へんな風な盛り上がりに誘導してたんで、好ましくないなあと警戒してたんだけども、
マその辺の仕掛けですべるよりは、
こうして潔く「普通にしんどい」方向で滑ってくれた方が諦めもつくので
ありがたいと言えばありがたい。

OPも、曲はいいのにどことなく歌にマズさを感じて結局まだ購入には至っていない。
いろいろシンドイなあ。



■Closing

マそんな感じで。
他にも『ピアシェ』とか『OneRoom』とかの五分アニメ、
『幼女戦記』『バンドリ』『スクールガールストライカーズ』『うらら迷路帖』
なんかも拾い見はしている。

そうそう、『スクールガールストライカーズ』は、大変いいクソアニメですね!
久々に、名クソアニメの感触です。
とにかく声優陣が安定の豪華さ。
「とりあえずこの辺揃えときゃお前ら見るだろ」っていう、
カネにモノを言わせてぶっこんだ感じのパワー、
ソシャゲマネーのパワーを感じます。『レヴィアタン』以来のパワー。
面白いところ、ひとっつもないもんな!
ブッ込む過程で生じた様々なムリのせいで天秤ががっしゃんがっしゃん揺れ乱れているところに、
札束の重石で「これでバランスをとれ!!」ってやってるような感じがもう最高です(偏見)。
無理して面白くしなくていい、という割り切りというか、
徹底統一された意志を感じます。
人間には、こういうコンセンサスの取り方も出来るんだなあと感心させられる。
意欲や思いではなく、役割に徹するというか。
完璧です。
いや、ダメじゃない。ダメじゃないですよ。こういうのはアリです。
これは理性
かなり高等な部類の、知性の産物です。
面白くしたくなる欲をぐっと抑し、本来そうあるべきところを捻じ曲げて、
そうではないところへ設定された目的の方向へ、
そうあるべき方へ向かいたくなるのを押し込めて進む、という、一種の知性と理性の力。
自分を信じない、力を信じるという。
すごいと思う。注目です。


あと、冒頭でちょっと書いた『レコラヴ』
どうでもいいけど、ヒロインの子はパンツは毎日替えた方がいいと思います。
見られるの分かってる(見せるのをちょっと楽しんでいる風でもある)んだから、
少しは意識して来いよ! って思う。
反町っちゃん、まいにち同じ黄色いぱんつじゃん。
ギャルゲーヒロインとしての自覚が足らぬ(そういう問題ではない)。
そこはこだわって欲しかった。

以上、嫌な顔されながらおぱんつ見せてもらいたいオイサンでした。


 

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2017年2月 8日 (水)

■帰港~喪失の港にて~劇場アニメ『#この世界の片隅に』・感想(後)~ -更新第1108回-

……と、前篇から続いてきたものの、
別にここからは大したことは書きません。


オイサンです。


劇中ですずさんが2回だけ口にする「あせったあ」がすごく好きです。
他は広島弁ガチガチで、すっかり知らない土地の人だけど、
ここだけは言葉もイントネーションも自分の知ってる言葉と違いがなくて、
急に知ってる人、身近な人になった感じがしていい。
抱きしめたい(突然何を言い出すんだ)。



■好き好きすずさん! スキスキ周作さん!

デ、ここからはオイサンが特に気に入った場面についていくつか萌えて各論とし、
シメたいと思います。
色々省いて、見た人にしか分からないような書き方をするところもあるけど
勘忍してつかあさい。


 ▼画と音

映像の素晴らしさについては……正直、何も言えない。
終わってみて気付いたのだが、さまざまな表現や出来栄えが、
当たり前のレベルで「自然・当然」であったのでしょう、
素晴らしさを意識することが出来ないレベルでスムーズに流れている。
イヤミや引っかかりがまったくなかった。これはスゴいことだと思う。

何やらものすごいレベルで調査されたらしい、史実や当時の実在の地形とのリンクについては、
歴史に詳しいワケでも、当時の様子を知るワケでもないオイサンは
そのすごさ・正しさを量ることは出来ないので、なんとも評しようもない。
ただ、その結実であれ、架空であれ、
舞台となる世界は少しだけその端々を知っているような、少し懐かしいような、
自分たちが暮らす今の世界との確実な地続き感に満ちており、
すずさんたちが実在の人物であると錯覚を起こすほどで、
彼女の抱く様々な感情が自分の中にもあるこれと同じ心の感触だと
確かに感じるための十分以上の手助けになっていたと思う。

それと、感じたのは、広島と言えば終戦の象徴のように語られることが多いことから
「夏」という印象だったのだけど、この映画の中では冬の情景が大変印象に残った。
暑さよりも寒さ、土間やかまどの石の、冷気をたっぷり吸いこんだひんやりと頑固な感触が伝わってきた。
戦争映画というと、燃え盛る炎と、豪の中のじっとりと閉じ込められた空気ばかりの印象だったから、
この印象の違いも、長い上映時間(2時間20分くらいある)でも強いストレスなく
集中して見通すことが出来た一因だったろう。


 ▼「執拗」であること

これは原作由来の成分ではあるけれど。
伝える、ということに対して、執拗な作品であったと思う。
何の話かといえば……すずさんの右手をも吹き飛ばした、その物語についてだ。
そこそこの物語であれば、晴美さんの命を奪うにとどまるだろうと思う。
けれど、この物語の作り手たちは……それだけではまだ、
「他人事」だと心で処理してしまう受け手がいることを知っていたのだろう。
彼らの情熱は苛烈だ。
どちらが先だったかはわからない。
右手か、晴美さんか。
しかしいずれにせよ、彼らは……受け手にその痛みを届かせるために、
すずさんの右手を吹き飛ばした。
受け手の、「自ら」の体の一部を引きちぎることで、受け手全員を完全に巻き込んで見せた。
「喪失」を、より完全にするためだ。
それが彼らにとってそのような史実であったのかもわからない、
しかし、これを表現に対して執拗、と言わずして何といおう?
見習わなければならない……。


 ▼小さき人たちと世界の不均衡について

全編に渡って素晴らい映画だったんだけど、数か所だけ、言葉で引っかかりを感じた箇所があった。
それは、本編の中で3回だけ使われる「世界」って単語だった。
まあ些細なことなんだけど……。

  厳密には5回出てくるんだけど、うち1回はすずさんのお義父さんが口ずさむ歌の歌詞で、
  もう1回は、別で言われたときの回想なので3回とカウントした。

どうってことない、水原さんがすずさんに言う
「お前だけはこの世界で普通でおってくれ」っていうのと、
もう一つは周作さんがすずさんに、もう一回はすずさん自身が、
それぞれ居場所について語るときに出てくるのだけど……。
なんていうか、世界を相手に戦争をしている時代とはいえ、
この規模の日常で暮らしている人たちが……果たして、
自分たちの存在を語ろうとするときに自然と「世界」っていう範囲を意識するものだろうか?
と、彼らが当たり前のように世界の中に自分を置こうとするその意識に、
ちょっとした引っかかりを覚えたのでした。
特に根拠はないんだけどね。

でも、今の今まで足元すらおぼつかないような範囲しか見えないでいた人たちが
突然「世界」って言い出したから、
フッと意識が遠くへ追いやられるような違和感を持ったのは事実。
それをどーこーせいと言うんじゃないけど……
そう思ったよ、ってだけです。

……あー、今思い出したけどもう一回あるわ。
周作さんが大和のことを「世界一の軍艦」って紹介するなあ。
マそれもノーカンでいいや。


 ▼すずさんと周作さん、帰りの汽車でけんかする。

  「お二人さん……そりゃあ今せないけんケンカかね?」

狂おしく愛おしいシーン。
駅員にそう呆れさせた、あのシーン。
広島のすずさんの実家での兄・要一の葬式からの帰りの汽車の中で、
すずさんは周作さんに対して
「水原さんと話す時間を作ってくれてありがとう、けど、夫婦ってそんなものですか」
と、腹立ちと不服を露わにするシーン。
ここでの周作さんの、子どもっぽいジェラシーと反論がすごく良いし、
そこから発展するケンカがまた、なんとも愛おしい。
「こんなちいさなことでいちいちいがみ合っていられることの幸せ」が、
とても暖かく描かれている名シーン。
ケンカは進行しているはずなのに、言い争う中身がどんどんけちくさく、なっていくのがまた
なんとも愛おしい……。


 「ほお、怒っとったとは気付かんかった」
 「そりゃ注意力散漫じゃあ! そんな、ほげた(穴のあいた)靴下はいてきて!」
 「すずさんの繕ったのは小さすぎて履けんようなっとったろう!」
 「他のがあったでしょうに!」



って……。おふたりさん! 萌え萌えですw!
そして、呉に着いてから家へ向かう


 「ほらまた方角を間違えよる! うちはあっちじゃ! 灰ヶ峰の方角じゃ!」
 「わかっとりますて!」



っていう後ろ姿なんかもう、あー、こうやって夫婦になってくんだなあ、
こういうしょーもないケンカ、どっかで見たなあ、と……うちの両親を見るようで。
親バカならぬ、子バカですけども。

しかし、水原とすずさんに「話す時間を作ってやった」周作さんは、
深い不安と、後ろめたさにも似た複雑な思いもあったことを思うと胸が苦しくなる。
いつ死んでしまうか分からない、「死に遅れた」と口にする水原への男としてのシンパシーもあり、
すずさんが水原に心惹かれているかもしれないことに思いを馳せ
(察知していた、と言えるほどたしかな思いではきっとなかったにせよ)、
ある種強引に広島へ連れて来てしまったすずさんへの後ろめたさの代償行為でもあり、
またこの先の戦争で水原が死んだとき、永遠に失われる彼への思慕が美しく大きくなり過ぎることを防ぐため
(いっそここで抱かれておけば、現世の思い出にとどめ置ける)、という、
ことここに至っていまだ小狡くある算段もあったのかもしれない。
本当に、あのシーンの周作さんの思いには、慮ってもはかりきれないかなしみがある。
これもまた、戦争という時代が生み出した思いではある。
戦争は色んな人の人生を、ゆがめながらも一方で作ってはいたんだなあと……
怒られるかも知れないけど、思うオイサンです。
奪うことの方が、やはり多かったに違いないけどね。


 ▼マイベストすずさん of the year in 1944

さあ、お待たせいたしました。
個人的マイベストすずさん in 1944 の発表です(ナンダソレ)。
裏の畑で港とお艦を描いていたら憲兵に見つかってしょっぴかれるときのすずさん。
草色の半そでアッパッパ姿の。
このときのすずさんはちょっぴり日焼けして見えて(夏の昼下がりの光の表現かもしれないけど)、
一番健康的に見えて……妙齢の女性の色気を感じました。
色気ムンムンな時期だったと思う……。
多分この時期、周作さんとヤ(自主規制)。
いや、周作さん、帰ったらこんな若奥さんが待ってるんだとしたらそらもう
タマランと思いますよ。すっ、すずさんっ!

  ……って、この映画をそんな目で見てる瞳が世の中にどんだけあるか知らんけど。

まあまあ、品のない冗談はさておき、戦時下にあっても女性的な魅力もきっとあったに違いない、
若い人の熱量っていうのは傍にあるだけで周囲を引き付けるものがあるから、
それなりにお年寄り多ゲな地域でもそういう役割をになっていたのではないか、と思います
(適当にそれっぽいまとめ方をする)。


 ▼大和~東洋一のくろがねの巨砲、凹んだ人妻を奮い立たせる

だから表現の仕方。
イヤ、そんな目でばっかり見てるわけではないですからね……ホントに。

広島への里帰りで深刻な疾病(ネタバレを避ける記述)が発覚し、
呉に帰ってからも密かに気に病んでいたすずさんを元気づけたのが、
あの日本が誇る大戦艦・大和の帰港だった、というシーン。
いやー、やっぱ大和はすげえな! 人妻もイチコロだ(だから言い方)!
オイサンは、今の日本にも大和が必要なんだと思いますよ。エエ。
軍事力がー、という意味ではなくて、
「世界一だ」と胸を張ることの出来て、手に触れることの出来る象徴的な巨大物体がですよ。

 とにかくでけえ!
 とにかく震える!
 とにかくそこに「在る!!」

というのは、巨大質量は全てを惹きつけるという、大宇宙の真理の一つなのだなあと
しみじみ実感する。
偶像崇拝とかなんとか言われるかも知れないが、
「なんかわかんねえけどデケえなコレどうなってんだ」
っていう圧倒感は、何物にも代えがたい説得力だ。

  『ストライクウィッチーズ』の劇場版でも、終盤、
  デタラメ大和のわんぱくライン川のぼりによって全員が勇気づけられる、という
  バカみたいな(ほめことば)シーンがあったけれども、あれと同じだ。
  あと関係ないけど、
  『アマガミ』の高山御大も『トゥルーラブストーリー2』のことを、
  「あれは戦艦大和ですからw」と評していたなw
  褒めコトバ半分、揶揄半分でw 良い表現だと思う。

あと、オイサンは全編に渡って周作さんのしゃべりが優しくてすごく好きなんだけど、
ここでの「ほれすずさん、大和に『呉へおかえり』ぃ言うてやってくれ」っていう、
周作さんの台詞、すごい好きです。晴美さんの人も、ものすごい上手だよねえ。
みんな名優だけどさ。


 ▼ラスト……の表現

周作さんいうところの「選ばなかった道」である、広島に残っていたらああなっていたであろう、
しかし授かっていたかもしれない子どもを引き受けることによって、
呉と広島というすずさんに有り得た二つの人生が合流する……という表現だと理解すると、
なんとも感慨深く思う。

ただ、もしこれがそのような表現であったとしたなら、
個人的には「広島のすずさんも右半身をやられていた」というのが、ちょっと引っかかった。
広島のすずさんは左半身に傷を負っていて、
まだ絵を描くことは出来、子どもにも恵まれた広島のすずさんから
呉の、画を描くことを失ったすずさんに子どもが託される……とあれば、
表現としては分かり易かったのではないだろうか、と思う。

しかし、
すずさんの人生というのは、あってもその二通りくらいなのだなと思うと
それもまた、切実なようで、鮮やかなようで、
無闇に選択肢ばかりを背負わされる現代に生きる者としては羨ましささえ感じるのです。
が……
空襲のさなか舞い降りた鷺を追いたてるにも
「いまここへ来ちゃいけん! そっちへ逃げえ! 山を越えれば、広島じゃ!」
と叫ぶしか出来なかったすずさん、「ここ」以外は広島しか知らないすずさんに、
やはりどこか、それだけで大きなかなしみを感じずにはおられない。
あのシーンはあのシーンで……
切実に広島へ帰りたかったすずさんの、追い詰められた心を見せられる場面で……
すごく、別のかなしさでも満たれていた。
美しい場面だった……。



■Closing…



……とまあ、そんな感じで。
長々と書いてきてしまったけど、いやあ、これでやっと一息つける気がする。
本当、2週間前の日曜日に見てから、暇さえあれば『この世界の片隅に』のことを考えてしまっていた。

オイサンはシゴトバで英会話の研修を受けているのだけど、
毎週授業の冒頭で、「週末は何をしたんだ?」って聞かれるのよ。英語で。
今週は、「先週と同じ映画をまた見てきた」って言ったら、先生はびっくりしてましたね。
「So Good?(そんなに良かったのか?)
 What was the title?(題名なんだっけ?)」
みたいなこと聞かれたんで、
「『In this Corner of the World』.
 In Japanese,『この世界の片隅に』」
って教えといた。はっはっは。見に行けばいいよ。

色々と拾い損ねている部分、考えの足りないところもあって、
思い返すたびにどんな意味があったのか分からず、悶々と考えてしまっていたけど……
どうにか、これで先ずはひと段落する気がする。

ここ数日は、片淵カントクのTwitterを読んだり、アニメスタイルの連載の過去ログを読んだりしながら、
GoogleMapで呉近辺の地図を眺めてニヤニヤしている危険なおじさんです。
まだ原作には手を付けていないし、
公式アートブックなんかも買おうかどうか、まだ考え中。

いずれにしても、ほかの聖地との兼ね合いもあって、広島には行きたいなあ、と考えている。
大学時代のマブダチも住んでいるし、厳島神社も小学校の修学旅行以来また見たいし、
近くには竹原もあるし、『田中くんはいつもけだるげ』の聖地も広島だし。



最後に。



こうやって、素晴らしい作品について、わからないことや見えていなかったこと、
言葉にできなかったことをじっくり考えてことばにし、まとめていく過程は、
正直苦しくもあるんだけど、とても気持ちの良い時間である。
本当に心地の良い、夢見心地の時間だ。
すずさんのような魅力的な女性に、じっと片思いをして、その思いを綴っているのと同じ気持ちがする。
イヤ、すずさん人妻だけどさ。

きっとこの先も、オイサンはこういう時間を大切にして、
頭のオカシイ片思いを続けていくんだろう。
良い時間でした。
もう一回くらい見に行くと思うけど。

またいつか、素晴らしき物語に出会えることを祈って。
映画って、本当にすばらしいフレンズなんだね。 ← あっ


オイサンでした。


 

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2017年2月 7日 (火)

■帰港~喪失の港にて~劇場アニメ『#この世界の片隅に』・感想(前)~ -更新第1107回-

……いやはや、大変なアニメーション映画だった……。
こころをすっかり焼かれてしまって、まだボンヤリと、
頭が、あちらの世界から帰ってきていない。
そう、『けものフレンズ』の話です。


ちがいます。『この世界の片隅に』です。


一度目を見て、感想をまとめようとキーボードを叩いているうちに、
ごくごく当たり前のこととして2回目を見に行ってしまった。別な館で。

  ……と書いても「お前が2回見るの毎回やないか」で片づけられてしまいそうだけど、
  そんなことないからね!
  そういう映画のことを毎回強調して書いてるから、
  毎作品2回も3回も見に行ってるみたいになってるだけで、
  『シンゴジラ』も『レッドタートル』も『エヴェレスト』も、
  『君の名は。』も『きんいろモザイク Pretty Days』も、
  1回ずつしか見てないから。
  なんなら『きんモザ』に至っては0.7回くらいと言ってもいいくらいだ。
  イヤそれは作品自体の薄さの問題だろ。

『この世界の片隅に』、
ともかく、あの物語の世界を思えば思うほど、心はどんどんそちらへ求心されていく。
言葉にしきれない思いが渦を巻くから、
ここらでいったん言葉にしてしまわないとならない。

色々な見方が生まれてしまう作品だと思う。

戦争が主題であるとも見られるだろうし、
家族、夫婦、の愛、そんなものが主として心に響く人もいるだろうし、
出会いの妙、人間のちいささ、そんなものと思う人もあると思う。
そんな中で、オイサンの見た『この世界の片隅に』の感想を残しておこうと思う。

  いっときますけど、
  当たり前のように本筋に触れるコト込みでバンバン書いていきます。
  それだけ一応、断っておく。
  まあ話の筋を知ったくらいで、何一つ価値や面白みの減衰する映画ではないので
  未見だろうが安心して読むがいい。
  それで面白さが損なわれた! と思うなら、2回、3回と見ればいいよ。
  私の言っていることが間違っていないのがわかるはずだ。
  大体私の書き方では、なんのことやらわかりはしないだろう。



■戦争と物語

「戦争」は、この映画ではとても明確に主題ではなく、舞台立てであるように見えた。
市井の人間一人にはいかんとも動かし難い、
つぶさな現象としての理不尽なかなしみの塊……いわば運命のようなものだが、
それがこの映画における「戦争」の役どころであるように思えた。

  運命という言葉がピンと来なければ、
  自分がこの時代に生まれ生きていることを思ってもらえればいい。
  それもまた抗うことのかなわない理不尽のひとつだ。

人が、いかに考え、備え、いかに正しく行おうとも、
運・不運や善悪に関わりなく、避け得難く降りかかる、大気のような大きなひとつのこと、うねり、
それが「戦争」という姿をして、この物語世界には現れている。

そして主人公のすずさんは、戦争と「時代」に、翻弄
……と書いてしまうとどうしても悲劇色が強まってしまうのだけど、
  そうとも限らず、今を生きる私たちと同じで……
その時々の世の中が生み出すうねりに、あっちへ押しやられこっちで流され、
一見自分で何かを決めている様で、
実はそうしたものに囲われた中で最低限をにっちもさっちもいかず、
右往左往して暮らしている。

特にすずさんという人は主体性を表に出さない(芯がないワケではない)人なので、
殊のほか、ほんろうの色合いの濃い生き方、営みをされておられる……ように見える。
すずさんはそういう「ぼぉっと流されてここまできたこと」を、
悔いるでも恥じるでもなく、
それをよろしくないと思うことも(少なくとも物語のあるタイミングまでは)ない。
「ええんかねえ」くらいはあるけれど、それについて何らかの感触をもつことがない
(オイサン自身も、そこに良し悪しはないと思う)。

そんなすずさんの足跡はつまり、自分をとりまく戦争や時代など、
「理不尽」や「運命の様なもの」を含めたものに対する者の、天然の姿そのものだ。
そこに、強いドラマはない。
結果的にすずさんも(誰もがそうであるように、自分自身の人生の結果という)ドラマを得るけれども、
ロマンや指向性はない。

それは人間の(というか生きるものの)本質だ、と、いまのところ、41歳のオイサンは思っている。
風に揺れる柳、瀬に浮かび淵に淀む木の葉であって、
いっとき闘ったり抗ったりすることは、人の世の限りにおいてはあるけれども、
根っこの姿は、意志を「大きな」拠り所とすることが出来ない、寄る辺なき者だ。

そんな頼りない生き物であるところの私たちが、
「大きなもの」から無尽蔵にわき出すかなしみに囚われながら生をまっとうする内には
どんな喜びがあるのか……
そんな風なことを、すずさんという筆でもって、戦争という時代を画布に描いた絵巻だった、
と、この作品を受け取った。



■居場所と寄る辺、よろこびを見つけ出す場所

すずさんの義姉の径子は、そんなすずさんの生きざまに、
「さぞつまらん人生じゃろうと思うわ」と憐れむように慰め、理解を示した。
空襲が激化し、
すずさんが右手と、見知らぬ呉に嫁いできて以来の友であった晴美を同時に失い
いよいよあらゆる支えを失いつつある中で、
「広島へ帰る!」と周作さんに対して感情をぶちまけた直後の、
晴美の母である径子と和解する場面でだ。

  尚オイサンは、2度の鑑賞の中で、そのシーン……
  警報の轟く中、庭に舞い降りた鷺を追い立てようとして機銃掃射の的になり、
  周作さんに庇われて溝の中で泣きわめくシーンでだけ、涙ぐんでしまった。
  なぜだろう。

このときのすずさんは周作さんに対し、
郷里の思い人(のようなもの)であった水原への気持ちを断ち切るほどの愛情を、
既に抱いている。
それを捨ててでも郷里へ戻りたいと叫んだすずさんの心がどれほど切実だったか
想像に難くないのだが、
径子に上の様に言われ「ずっと呉にいたい」と心を翻し、言い出すのは……
これは想像に過ぎないが、「そんなことは、決してなかった」と思ったからだ。
つまり、
「自分の意志でなくとも呉へ嫁にきて働きに働いた暮らしは、
 つまらないものではなかった、
 広島の日々と引き換えに出来る、価値ある日々であったし、
 この先そのような日々になっていく」
と思ったからではなかろうか。

戦争という理不尽な時代の中、言われるままに嫁に「もらわれ」働か「され」て、
道を選んでこなかったのは確かだけれど、
果たして自分の暮らしの中に喜びはなかっただろか、誤りしかなかっただろか……。
そう考えたときに、そんなことはないという確かな結論を得たし、
他にもいくらかの、意地とかのささやかな感情もあって、
呉に根を下ろす気持ちが芽生えたと想像する。

「根を下ろす」というのは、この物語におけるキーファクターだ。
それは物語後半、「居場所」という言葉で繰り返し語られ、
すずさん自身の口からも、周作さんからも聞かれる。
径子は
「すずさんの居場所はここでもええし、広島でもええ。つまらん気兼ねなしに決めんさい」
と優しく投げかけた。
「居場所」は、寄る辺なき生を授けられる人間が、喜びを見つけ出す場所だ。
すずさんはそれを、周作さんに見初められ、径子と和解することで見つけ出している。

  余談だが、すずさんが呉に残る決断を下したまさにそのときに、
  広島に原爆が投下されるのは物語に置いて、演出はさりげなくも、
  あまりに劇的で象徴的だ。
  客観的に言うなら
  「広島に原爆が投下される直前に、すずさんがその決断を下した」のだが、
  これをすずさんの物語であるとすれば、
  彼女が決断することで、選ばなかった選択肢が消されたように見える。


――世界は、かなしみで満ちている。


それは、この物語の中では言わずもがな、戦争状態でなくたってそうだ。
満たされているのならまだいい。
汲めど尽きせぬかなしみに、絶えず押し流されている、と言った方が正しい。
現し世は移ろい続け、寄る辺ない私たちはそれを止められないし抗えもしないから、
どうしたって何かが失われていく。
失うことはかなしい。
それはもう、光の速さに追いつくことの出来ない私たちが背負い続ける業なのだけれども、
そうして激烈に失い続けるしかない暮らしの中で人々が口にする、
慰めにもならないような「良かった」という言葉に、
すずさんは、吹き飛ばされた右手を見つめてうたがいを投げかける。

  いったい何が「良かった」というのか。
  ここには、喪失のかなしみしかないではないか……。

無間のかなしみの中にいながら見つけ出すささやかなよろこびを「良かった」と肯定して、
そこを居場所にするたのだということを、周作さんの存在と、
晴美の母である径子の言葉から、すずさんは感じ得たのだろう。

どんどん失くなっていく、かなしみの塊でしかないこの世界で、
「良かった」を口にするための居場所、寄る辺とは、何であり、どうなのか、
どうやって形作っていけばいいのか……
その一つの在りようを、この作品は見せていた。



■主題ということについて

ところで先に、戦争は主題ではない(ように思う)と書いたけれど、
戦争や災害や、すさまじいもの、大きなものの中にいないと、
あれだけのスピードで失っていくこと……
「自分たちが常に喪失のかなしみの中にいる」ことを、強く自覚する機会は少ないだろう。
そういう意味では、この映画は戦争の映画だった、とは言えると思う。
ふつう、失くなることと生まれることは、
(少なくとも現代の日本で穏やかに暮らす限り)ある程度のバランスの上で起こるから、
あれだけ「失くなり続ける」ことを目の当たりにすることは多くはない。

また、テーマとしての愛(のようなものごと)についても似たようなことが言える。
径子に「居場所は自由に選んでいい」と言われたとき、
すずさんは故郷広島ではなく、呉という町の、灰ヶ峰のふもとを選び取り、
「居場所を得る」ことになるけれど、その契機を作ったのは、
他ならない周作さんの、彼自ら「最良だった」という選択だ。

周作さんが、すずさんを見初めて広島から呉へ呼び寄せ、
傍にあって真摯な思いを注ぎ続けたことや、
不完全ながらも夫婦や家族の形をともに作り上げたことがあり、
その結果、すずさんは呉で生き残った。
そして恐らくは……いつしか「良かった」を口にすることで、
最終的に、戦争という時代にも打ち勝っていく。

だから、この物語は、夫婦愛、家族愛の物語である、と捉えることにも十分にたえうる。
本来言語化を必要としないその営みを、
愛と呼んで心の力に変えていく人間独特のちからであるとうたっている、
ということもできる。

誤りたくないのは、
「だから居場所を得ればよいのだ」とか、「愛は戦争や暴力に勝る」とか……
そうした単純化を、この作品がやすやすと許していないことだ。
この作品が語ったのは、すずさんの肉体を通して起こった一つの例にすぎない。
そこに、戦争も愛も、テーマと呼べるようなものは単純なものはない。

一度は得た居場所・寄る辺も、すずさんはまた、戦争によって失っている。
皮肉にも、終戦という形でだ。
玉音放送を聞いた直後のすずさんの慟哭は「なぜ最後までやらない!」という理不尽な叫びだった。
すずさんは戦いを続けたいはずがない、勝ちたいはずもない、負けた悔しさがあるわけもない。
あの叫びは、言うなれば

「一番大切なものは失ってしまった、
 だから自分の『残り』全部がけずりとれるまで、ここですべてを失う腹を決めたのに、
 どうして全て炭になるまで失いきらせてくれないんだ!」

という叫びだったと思う。

「これでいいと思ってきた、これまでの全部が飛び去って行く」という語りには、
得たと思った居場所でさえも、
戦争とワンセットになってしまっていたことが含まれている。
手に入れた居場所は、我知らず「失う」という思いとひとくくりになっていて、
一度、終戦という形で一つの決意と切り離されゼロに戻されてしまった。
あの怒りは戦争そのものへの怒りではなく、その戦争をどこか遠くで作り上げてきた、
奪い、失うことを強い続けた挙句に失う事さえ取り上げた者どもへの怒りだ。

「『これでいい』と思ってきたこと」さえ……
何もなくても良い、「子供でおるのも悪うない」と思っていた自分や
「お嫁に行かなくていい」と言った自分を振り払って根を張ることを選び、
何を失ってでも……否、なかば失うからこそここを守って居続けると決めたことさえ、
最後には奪い去られたことに対する怒りだった。

あとになって思い返してみれば、すずさん自身も
「なぜあの時あんなふうに思ったのだろう、叫んでしまったんだろう」
と思うかも知れない……やりきれない、混濁した、理不尽な思いは胸を打った。

また、親子、家族、夫婦の愛が戦争に負けない――そんな話でもない。
それらが惨めに蹂躙され、暴力に屈する場面も冷酷に描かれている。
原爆に焼かれて故郷の呉まで、山を越えて辿り着いたものの隣保館の傍らで力尽きた、
焼けただれて変わり果てた我が子をそれと気付けなかった、母親の姿がそれだ。
片桐さん……だっただろうか。
そんな、ひとがいつも最後の旗印に掲げたがる武器でさえ、
大きな出来事の前では、ぽっきりと折れる些細な杖でしかないと突き放してもいる。




けれども、そんなものをよりどころにして生き、
「良かった、幸せな人生だ」といつかどこかで口にしなければならない、
そんなか細い、喜びとかなしみの矛盾に組み成された、人の営みの姿を描いた作品だった。




  ……人に限らず、この世の命は皆そうなのだろう。
  進化の過程で言葉や知能を置き去りにした者たちが、
  そのことについてどう感じているかは分からないが、
  彼らはそれに納得したがゆえにそれらを置いていったに違いない。

ところでこの映画を見ていて、「平和ボケ」ということもまた、考えてしまった。
それは狭義な、戦争がどーとか、危機感がこーとかいう意味に留まらず、
自分の人生が特別で安全なものであって、
「デフォルトで」理不尽やかなしみと無縁に守られているものであると思いこむことだ。
この映画が非常な稀有なもの・物語として評価されていることの背景には、
その広い意味での平和ボケ
……自分の人生の安全を生命由来のものと無意識に思い込むこと……
が、ケガや病という日常のレベルで入り込んでいることがあるんじゃないだろうか、
と思った。



……マそんなことで……。



どこまで文字にしても上手くまとまり切らないし、それも当然なのだけれども、
これが、多くの人が「言葉にならない」「一言で語れない」「感動とか泣いたとかじゃ語れない」と、
言葉にすることから手を引いたこの映画の、正体の一部だったと、オイサンは思う。
ひとりの女性が得た史実なのだから……通りの良い結論などなくて当たり前だ。
素直に混濁した思いと、何によって救われたかがあっただけだ。

それがゆえに、わかりやすく説教臭い
「辛く苦しくとも、明るくしなやかに生きていきなさい」
といったようなメッセージはここにはない。
それを全く感じさせないのが、またこの映画の凄みのところだ。

ここまで書いてきたことをまとめると
「人間存在のちいささ」みたいな、味もそっけもないあやふやな言葉になってしまうが、
そのことを丹念に丹念に、ひとりの人間のからだを通じたつぶさな記憶へと描き込んでいるから
誰の手にも届く、手触りのある形になっているのだろう。

そしてまた、そのための手はずとして、
史実や、当時の風景とのリンクを石ころレベルで図ることがあったのだろう。

地続きとも思える時代の水分を持った風景の中を、ただひとえに、
こうやって生きた人がいたかも知れない、
生きていくことが出来たかもしれない、
この先、出来るかもしれない、という一つの具象として描くこと。
「こういうことがありましたよ」と、ただただ真摯に謳うのみだ。
自分の瞳の端にも掠めたかも知れない、人影の物語。
だからこの物語は単純な悲劇では終われないし、時代を悪しざまに批判するものでもない。

争い、理不尽、暴力への憎しみは、
いたいけなすずさんの姿を映して当然心に芽生えるけれども、
それはまた大切な別の契機として、心のどこかへ持ち帰ればよいと思う。

ところでこれは偶然知ったことだけど、『この世界の片隅に』のタイトルは英訳されると

  『In this Corner of the World』

となるらしい。監督がそのようにしたそうだ。
記者に質問された際、『In the Corner of this ...』と言われて訂正したという。
つまり、「この」は「世界」にかかるのではなく、「片隅」の方にかかる、と制作側は考えている
(原作者の意向が反映されているかはわからないが、監督の原作へのほれ込みようを見るにつけ、
相談はされているだろうと思う)。
だから、より限定的に、日本語的にタイトルを言い直せば、
『世界のこの片隅に』が、言葉としては厳密かつ的確になるのだろう。
「どこをも中心、どこをも片隅と捉え得る、球状をした世界のあまねく片隅」ではなく、
「『この』東の果ての日本の、広島・呉という片隅」ということが強く主張されている、
と考えた方が良い、というメッセージだ。

しかしそれはあくまでもすずさんという女性の人生を思ったときのことであって、
この作品を見た私たちは、誰もが自分の帰るべき片隅に持ち帰って欲しい、という広がりを、
合わせて謳っているように思う。

すずさんの得たものが唯一解でない用に、
「this corner」はあまねく個人の視線の先にあるthisであってよいと、
そう言っているように、オイサンには思えた。



……と、ここまでが総論。
ここからは各論というか、オイサンの好き勝手な話になっていくので
(ここまでは好き勝手じゃなかったつもりか)、
一旦ページを改めます。


ほなまた。オイサンでした。続く。




 

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2017年1月18日 (水)

■ろんぐばくおん!らいだぁす!は思春期!&パンツァー -更新第1104回-

2016年も、そこそこたくさんのお歌を聴いた……ような気がする。
ちゃんと管理とかカウントとかは出来てないけど。

年の中ごろに一回、『シャツとブラウス』とか『Golden Life』(『アクティヴレイド』のOP)とか、
『いつか僕らのエピローグ』(『氷菓』webラジオED主題歌)とか、
心にパッと火をつけてくれたものについては書き残しておいたが、
そんな中でも、年の後半特に心に残った数編について書き残しておこうと思う。

今回書き残すのは、斬新・革新というよりは、
普遍的な物を新しく鮮やかに、作品にあわせて言い換えたモノが多いように思うが、
それはそれでいよいよオジイチャンになってきたオイサンの涙腺にググッと来たので、
思い出のように、
……また十数年後とかに、我知らずふと口ずさんでしまうくらいには心に留めておきたいと思う。



■『ろんぐらいだぁす!』OP 「ハートkm/h(ハートキロメートル per hour)」

 


 ▼ハートkm/h
 


作品本編の方は、制作の遅れとか、マそもそもハナシにそれほど見るべきところがないとかで
色々災難な感じですが、OPは素晴らしく、なかなか好きです。
特に画の方も、後半完全版になってからは大変良かった。

まず曲のタイトルからして良いですね。
「ハートkm/h」。
正直、最初見たときは「またヘンにカワイカッコぶったタイトルつけてやがって」
と思いましたが、なかなかどうして、ちゃんと受け止めれば巧みです。

なにせ自転車のアニメですから、漕ぐ人間の心肺能力が重要なワケです。
時速ハートkm、つまり「お前の心肺能力の分だけ速度が出るぞ、前に進むぞ!」
ということを、非常に短く、端的に表現しきったナイスなタイトルだと思う。
ブラボーです。
また、意味はもう一通りとれて(というか寧ろコチラの意味がメインだろうけど)、
「キモチの分だけ前に進む」というところですね。
この、自転車にかこつけて意味を二つ載せてきた辺り、実にいいですね。

歌詞全体も、とにかく
「新しい世界、新しい自分! 勢いで、気持ちで、前のめりで、前へ前へ!」
という疾走感、加速感と気持ちの昂揚感がもう
どうしようもなく抑え込めずにあふれかえっており、
よくもまあここまで前傾姿勢を徹底できるなと感心します。
お前はトリケンか(それは前かがみだ)。

しかしこう、一番心にグッと来たのはやはりサビの部分ですね。


  ♪ この心に生えた翼で見たい景色があるんだ! ♪


まあ、表現自体は特段珍しい歌詞ではない、と思いますけれども。
ただ、絶妙に「もどかしさ」が、言葉遣いによって織り込まれているところが
素晴らしいと思う。
「見たい」「あるんだ!」の欲求・訴えコンボで
「お、おう。せやな」としか言われた方が返すしかない
(内心「見られたらエエな」「ちょっと落ち着け」という気持ちもあるけど)
一方的だけどもイヤミのない情熱は、
オイサン大変よくわかる。

気持ちばかりがものすごい昂揚感で先走ってしまって、
見たい景色と、見たい景色を見られる自分にはまだ追いつかない、
でも見たい気持ちだけは本物なんだ、分かってくれるよね!?
っていう暑苦しいようなさわやかなような訴えが、この歌詞にはある。

「気持ちに生えた翼」というのは、
所詮はまだ「飛ぶことが出来るかもしれない可能性」でしかないわけです。
けれどもそれは、物理的に具現化されるもうホンの半歩手前の、
半透明で目に見えるくらいのところまで来ている「限りなく1に近い0」であることが、
この歌詞では「あるんだ!」によって表現されておる。

この歌で歌われて初めて気が付いたけれども、
オイサンも心に羽を生やせていた時期が確かにある。あった。
それこそ何回も何回もあったわけですが、
具現化に成功したことは多くはないにせよ。

  代表的なのは、
  『北へ。』をプレイして北海道へ旅行するのを決意した時とか、
  『アマガミ』やって50kgダイエットした時とか、その辺ですね。

その感触があるからこそ、この歌へのシンパシーというか、
歌詞がしっかりと捉えている身体性の部分を共有することが出来て、
すごい良いな、と思ったのでした。

それに、別にトシ食ったからと言って心に翼が生えなくなるわけじゃなく、
この先もナンボでも生えてくると思うのです。
それは素直に、あると思う。
そういう意味で、今後の希望としてもこの歌は大事に持っておきたいと思うし、
皆さんにもぜひ素直に聞いてもらいたいかなーと思うのです。



■『大家さんは思春期!』OP 「Shining Sky」

 


 ▼Shining Sky
 



  ♪ きみの笑顔のカガヤキで 明るくなる セカイ
  ♪ ……
  ♪ きみの心のヤサシサで 彩られる ミライ


1行目が1番のサビ、2行目は2番のサビです。
コレマタ、珍しいことも斬新なことも、なーんもないありふれた歌詞ですね。
オイサンもそう思います。
作品本編のチエちゃんあってこそのインパクトだとは思います。
あの大きなキラキラの目があってこそ。

ただ、オイサンももうすっかり老人ですから、
こういう素直な言葉には、とても普遍的なことを感じるわけです。

よーするに
「自分が笑ってなけりゃ、世間がどうあれ、自分の見える範囲は暗いままだよ」
「世間はどうあれ、自分の心が優しくおおらかであれば、愉快に生きていけるよ」
ってことです。

自分が笑うことで世界中を明るく楽しく出来る、なーんていう大それたことではないです。

  いや、チエちゃん大家さんなら或いは可能かもしれませんが……、
  超明るく素直若干不憫系美少女でも女子中学生でもない、
  うらぶれアラフォーのオイサンには、少なくとも無理です。

けれども、
電池の切れた懐中電灯では世界の明るさはともかく、自分の前も明るくはできんよ、
という程度のことで、
人間にとって所詮セカイなんてものは「自分の目の前に広がっている範囲」でしかないのだから
(この辺ネガティブスメルがしてますがそれはオイサンの才能です)、
そこに広がるものを明るい目で見るには、まずなるたけ自分は笑っていようぜ、
佳い目で佳く見ようぜ、ということなのだな、と改めて考えた。
笑う門にはなんとやら、というのと同じだ。

ココロのヤサシサの方も、同じ。
上の話が空間的な明るさの広がりの話だとすると、
こっちは時間的に明るく広げていけるように生きよう、という話。
荒んでひねて物事に接していたって愉快に暮らしていけはするまいよ、というね。

マ世の中、こちらがやさしい顔してると
逆手にとってよろしくない対応をなさるような人種も大勢おられるんで
そうそうヤサシサでばかりいられないよ、というのもね、
エエ、オイサンだってこの日本で、東京砂漠で年を重ねた老人ですから分かりますともよ。

けれどもまあ、ね、心構えの話ですよ。
バカでおれば幸せでいられる、というのにも通ずる。
マどうしてもバカになるのが受けつけないなら無理にとは申しませんけれどもね。
幸せなバカか、荒んだ賢者か……
ヨノナカ二択ではないしバカそのものが不幸ならどうしようもないけれども。
これはもう、すごく普遍的な「気持ちのもちよう」の歌だったな、と思う。

あと、


  ♪ 天真爛漫 キュートな靴音 聞こえたら重なるリズムがうれしい ♪


のところが、ほんのりと『じゃりン子チエ』をリスペクトしてきてるのが
素晴らしく巧みだと思った。げんきなゲタの音がする!

なんていうのかね。
「やさしい」というのはただ他人のことを思ってなにかをするワケじゃなく、
他人を通して自分の置き場所も変える、ということなのだと思う。
他人と自分の位置をうまくすることで、
今ここにいる自分と、相手と、相手の向こう側にいる自分の場所を動かして、
世界の荷重・比重を良い具合にする。
そうすることで、世界全体を「ちょうどよくする」ことが出来るのだと思う。
クツ紐の、あっちを引っ張って、こっちを緩めて、
全部を丁度良くするようなはたらきをすることだと思うよ。

やさしい、寛(ひろ)い、というのはそういうことだと……最近思う。


 ▼『じゃりン子チエ』ED
 




■『ばくおん!』OP FEEL×ALIVE

 


 ▼FEEL×ALIVE
 


これは前にもちょっと書いたような気がする。
まあとにかく……2016年は『ばくおん!』の年だったと言っても過言ではありますまい。
エエありますまい。
クレイジー(byアラフォー)でトゥーサッドな本編の内容とはうらはらな、
パワフルで明るいお歌ですが、特にサビの


  ♪ 感じて 応えて 風になる ♪


の部分は、オイサン的に革新であった。
「風になる」のが「応え」た後だというのは、もう、
……なんでしょうね、新しい。
バイク乗りの、非常にリアルな身体性から出たものだという、妙な説得力がありますね。

イヤ、作詞をした人がバイク乗りなのかどうかは知りませんけれども。
なんかこう、そういう妄想からの説得力を与えるだけのインパクトを感じた。
「風になった後、その中でこたえを見つけるんじゃないんだなー」
と変な感心をしてしまったし、
生粋のバイク乗りはきっと、乗り始める前から魂に答えを持っていたりするんだろうなと、
そんな風に読み取った。
選ばれし者というか、恩紗ちゃんの言葉を借りるなら、「バカ」はきっとそうなんだろう。
その感覚は分からないではない……
……オイサンの場合はバイクじゃなくて、文章を書くことであったりSTGであったりだけど……
から、胸骨にビシッと、飛んできたナットがめり込んだような衝撃を感じた。

これはもう、オイサン的にはこれまで聴いたことのない、
オンリーワンの斬新な歌詞ワークでした。脱帽。



■オマケ:劇場版『ガールズ&パンツァー』ED主題歌 「piece of youth」

 


 ▼piece of youth
 


もう1年3か月くらい前の映画なんですね、コレ……。
これはもうずっと前から書きそびれてたので、この機会に書いてしまおう。

TV版ではほとんど興味を喚起されなかったオイサンを、
ものすごいチカラ技でこっち向かせた作品だったワケですが、
この主題歌「Piece of youth」については
率直に言えば、ラストに流れたあの曲を聴きながら、いま一つピンとこなかった。

しかし不思議と、作品から少し距離を置いて、
たとえば『劇場版』の宣伝をテレビで流れながらバックに流れるその曲を聴くときなどは胸にジンジン響く。
あの作品のエンディングに、主題歌として聴くと、ピンとこなさが増すのだった。

この違和感はなんなのだろうなあ? と考えていたのだけども。
答えはシンプルだった。


  ♪ あの頃のぼくらはまだ 明日の地図さえ持たずに 
  ♪ 新しいなにかを探してたんだね……



この歌の歌詞に登場する「ぼくら」……歌い手を憑代に声を発する存在が、
明らかに、いまこのときの(ラストシーンでの)西住どのたちじゃない。
闘い終わって、大洗に、それぞれの学校へと帰っていく、スクリーンの上にある彼女たちではなかったからだ。
この歌は、まだ彼女たちの知り得ない多くの経験について歌っている。


  では、この歌は誰のものであったのか。
  この歌を歌っている「ぼくら」は何者なのか? 


確信できるのは、時間軸。
西住どのたちよりも未来にいる何者かが、
「あの頃」、まだ若く、幼くさえあって、しなやかさと、
明日の地図を持たないがゆえに踏み出すことの出来る強さを持っていた自分たちを、
西住どのに照らして懐かしむことの出来る時間にいることだ。

となると、こたえは一つだ。
この歌は……すべてのガルパンおじさんの歌だ。
そしてスクリーンの中であまりにも眩しい西住どのたちの姿を、
「あの頃」の「ぼくら」の姿として見て良い、と歌っているのだ。

嗚呼、そんな馬鹿な!
信じられない。彼女たちはあまりにも眩い。あまりに恐れ多い。
「あの頃」の自分たちが、いまスクリーンの上で煌めいている西住どのたちのようだったはずがない……!

オイサン自身、自分の「あの頃」が、西住どのたちのようだったかと言われたら
決してそうは思わない。思える筈がない。
だが、けれども、「そうなのだよ」とこの歌は言っている。
言ってくれるのだ。
「あなた方ガルパンおじさんの「あの頃」も、実はこんなに眩しく輝いていたのだ」と
真実の姿をいま、こうして映し出して見せてくれている。
あなた方が乗り越えてきた、泥の色をしてるように見えていた様々のことが、
実はこれほどまでに輝かしい道のりだったのだと教えてくれている。
誰の人生も、実は輝いていたのだと歌ってくれているのがこの歌だった。
そりゃ泣くよ。

それを根拠づけるのは、彼女たちがまだ明日の地図を持たず、
「ぼくら」がそれを持っているということに他ならない。
変わらない友情を知り、果たせなかった約束を後生大事に胸に抱いているその事実が、
この歌の歌うところが本当なのだと証明している。



……なんていうかね。



戦車とか、ミリタリー趣味とか、サバゲーとか。
家で、

 「ちょっとアンタ!
  またそんなワケの分かんない、汚らしいオモチャやら分厚い変な本やら増やして!
  もうやめてちょうだい!」

などと怒られ続け、すっかり日陰者だった者たちの……ガルパンおじさんたちの!
ダメダメだった過去を、
いまこの時代に『ガルパン』があることが、ホンノリと肯定してくれる。
そんな歌である。
……ように思う。

どうだ? 『ガルパン』はいいぞ?



■Closing



とまあ、そんな感じで。

ところで先日、PCから音楽を再生するのに、気まぐれにiTunesから直に再生してみた
(普段はiTunesは、電子購入用にしか(つまりStore機能としてしか)使ってない)のだが、
あのライブラリを見返せば、どんな音楽をいつ買ったかが全部残るのですな……。
それは……なかなか、ステキなことだなと、思ったりしたよ。

それにブログ機能なんかを連動させてたら、
こういう出来事があった頃、こういう音楽を買って聴いてたんだな、と、
ちょっとだけ厚みが出るような気がした。
オイサンは、ヘボ耳なりに「繊細な部分を気にして聴きたい曲」についてはCDで買うようにしてるから、
いまの状態だと全部のログが残るワケじゃないんだけど。
なんかそれは、ちょっといいな。


今年も、鮮やかに心動かしてくれるたくさんの歌に出会えると嬉しいなあと思います。
それと同じくらい……昔聴いた歌を、旅の中で思い出せたらいいな、と思います。


  ♪ そうさ、忘れた歌をさがして
  ♪ 旅人は歌っていくだけさ







決して若くない若き旅人、オイサンでした。
アデュー。

 
 

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2017年1月 7日 (土)

■ミライガ マルゴト ヤッテクル。~PRay Back 2016~ -更新第1102回-

2017年、あけましておめでとうございます。
オイサンです。

  ……もう七日やないか何を言うてまんねん、と突っ込まれそうだが、
  いいんですぅー、まだセーフですぅー(根拠なし)。

旧年中も皆さんにたんまり笑って頂きました。
本年もガッツリ笑って頂く所存なので、マその才覚のある御仁だけ読めばいいと思います。
ついて……こられるか?

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鎌倉、鶴岡八幡宮。超解像ズームの練習で撮った。


マそんなんで、年も明けたというのに早速新年らしくないお話、
2016年の総まとめをやるます。
それをやったからといって何か発展的になるワケでもないけれど、
振り返らないと忘れちゃうから……老人なので。


  ※チョイチョイ入るお写真は本文とは概ね無関係な、
    2016年の個人的に気に入ってるお写真です。


■ある阿呆の一年 '16年版


  ▼反省~人生をたいせつに扱うこと、心と体の衰えと使い方を知れ。

とにかく2016年は……時間が全然、上手に使えなかった。
足りなかったんじゃなく、使えなかった。何もカタチに出来なかった。
楽しむことだけは出来て色々楽しかったが、けど、生み出したり作り出したり、
全然出来なかったのが……やはり、不甲斐ない。それをするのに体がついてこなかった。
ベースでやろうとしていることの分量は変わらないのだけど、体力的にそれが出来なくなった。
仕事して、インプットして、体動かして、書き物して……が出来ない。

体と心が、完全に緩んだ。
2017年は、いくらなんでももう少し引き締め直す方向で行くことにする。


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旭川空港。8月の朱鞠内の帰り。ワリとてきとうに撮ったのに。


ただし、自分がもう老人であることはしっかり意識に捉え、
摂取するのも、消費するのも、熱量を抑えて行こうと思う。
「たくさん動くからたくさん食べていい」のではなく、
「少しだけ食べて、それなりに動く」の方向性だ。
内臓がたくさん取り込む馬力を失いつつある実感がある。
すぐにヘタるので、たくさん取り込むことにエネルギーを使い、ダメージを負う。
弱虫ヘタる。
内臓を動かすのに体力を使う、そういう段階にきている気がする。
こればかりはどうしようもあるまい。

とはいえ今のオイサンは41歳、数え年では42歳で
(この数え年って勘定のしかたもなんなんだよって思うけど)、
世間的にはいわゆる本厄のトシだったワケです。
本厄コンニャク。うるさいわ。
その本厄を、ひとまずは目に見えた大禍なくやり過ごせたことについては、
この程度で済んでまあ良かったのかな? と思いもする。感謝である。

2017年こそは悪いカオで、
「クックック……この体にもだいぶ慣れてきたぞ」
と自信満々で言えるよう、削ったり足したりをバランス良くやって、精進していきたいと思います。
……人間、いくつになっても精進なんだなー。
メンドクセエ ← あっ

計画的に……というのは性にもスタイルにも雰囲気にも合わないので言わないが、
なんというか……うまいことやる。

Atrdsc06263
これも8月の朱鞠内。早朝、釣りに漕ぎ出す見知らぬフィッシャーマン。



 ▼2016年のスローガン「知性と教養」について、そして未来志向の世相について
   ~AIと宇宙的神秘の出会い、VR・ARと日常の出会い~


2016年は、年の初めに「知性と教養を!」なんてことを嘯いていたわけだけれども、
そのお陰なのか、大したレベルでは全くないにせよ多少「お勉強」のようなことも、
日常レベルで手を付けることが出来た。
それこそ本当に大した話ではない、娯楽目的でなく、何かを知るために本を読む、みたいなことでしかないけども。
「知ることにキチンと時間を割こう」というのは、億劫がりの自分としてはなかなか上等な発想であった。
それと関連して、2016年は「明るいニュースが多かった」と、個人的は言ってしまおう。

  ほかで起こったおかしな悪いニュースが帳消しにされるわけじゃなく、
  一年全体の印象として「よろしくない年だった」ことが打ち消されるわけでなく。
  「悪いことはあったが、良いニュースもそれはそれで多かった」というだけだが、
  喜ぶべきことではあると思う。

具体的にニュースとして報じられないまでも、
世間に流布した様々な出来事の中に、心躍らせる要素がたくさん……オイサンには感じられたので、
「良かった」と思った。


Dsc00849
掛川、2月。千反田さんに呼ばれて行った加茂荘菖蒲園。


それらは主に、テクノロジーの進歩、と言ったら最前線の人には鼻で笑われそうだが、
テクノロジーのちょっとした前進が実用・日常のレベルまで落とし込まれてきたなという実感で、
AIだったり、VRだったりARだったり、使い方のこなれてきたセンシング技術だったりなのだけど、
それらによって、なんかこう……

  「ああ生活が変わってきたな、これからまた変わるな、
   そして人間の『ものごとを把握し理解する能力』が少し拡張されたな」

ということを実感する。
人間(少なくとも日本くらいの文化レベルで暮らす若い世代)は、「新しく」なってきているなー、と、
見ていて思う。
その分切り捨てられる箇所もたくさんあるけど、それは多分、
視点が全般的に「上がって」しまったのだろう。
管理職が実務者の細かい作業まで把握しないのと似ている。

  その細部こそ大切な場合も多々あるので、一概に手放しで喜ぶことは出来ないが、
  ここで取りこぼした部分については、あとの世で(時間はかかるかもしれないが)うまいこと回収されることだろう。

VR機器が本格的にご家庭に入り込み始める傍らで、ARが『ポケモンGO』で世間に旋風を巻き起こした。
AIの分野では「こっちはしばらくは人間に追いつくのは無理だろう」と予測されていた囲碁の世界で
予測をあっさり覆し、人間に勝ってしまったり、
医療の分野でも人間の医師には見出すことのできなかった治療法だか病原だかを特定してしまったり、
し始めている。
自動翻訳の世界でもガンガン成果が上がっているというし、なんなら自分で作品を書き出すAIもいるという。
それを見て、世界最高峰の頭脳(人間の方な)が、
「ぼちぼちAIはやべえ。人間は警戒した方がいい」と言い出したりし始めてる当たり、
ガチでキテると思っていいのだろう。
意図的にアホな日本語を用いるのはやめろ。


Dsc00626
3月?スカイツリー。Pe氏と。


それと並行して、宇宙開発的な面での成果にもよく目がいった。
重力波の観測に始まって、新しいブラックホールがどうしたとか、
今まで見えなかった何かが見えたとか、見つかったとか。
まあ正直、オイサンにはそれらが具体的にどうすごく、将来的に生活にかかわってくるのかどうかもわからないけれども、
ここ100年くらいは何かを確かめることが主だった分野で、確かめが終わり、
過程で抽出できた物事を使った新しいことが始められたり、拡張されたり、
という段階に入っている……ように、まあ、素人目に見えている。
実際はわからん。

特に、宇宙規模的な
「なんか仕組みはハッキリとは分からんけど、
 観測結果から推測しまとめるにこういうことのようだ、
 リクツの根底まではハッキリせんが、それはもう確実で決まり事だ」
みたいな扱いに留まっていた事々について、この先発達したAIが、その仕組みの解明を手助けしたり、
「実は今までの理解はちょっと違っていて、実はこうなんだ、
 ここんとこで間違ってたからよくわからなかったんだ」
みたいな指摘に上手に手を貸してくれるようにこの先なるのではないか、
という不思議な期待を感じている。
なぜなら、彼ら(=AI)は既に人間の予想を覆す結果を出している。
即ち、人間には観測しきれない物事の関連性を膨大な事象の中から導き出すことをやってのけ始めているのだから。
ヒトには出来ない観察と推論と思考を彼らはやってくれる。

そこの「人間には気付けない辺り」に、
今まで辿り着くことの出来なかった宇宙の深淵への希望が見いだせるのではないか、
新しい扉が、また一歩開かれるのは案外すごく近い将来なんじゃないかと、
昨年一年、ひしひしと感じていた。

  この辺の変化については、確認したわけじゃないけれども、
  多分宮沢賢治あたりが大昔に詩に詠んで予見しているんじゃないかと思う。


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城端2連発。上は富山へ向かう途中のPA、グロッキーのアラフォーをしり目に。下は城端のローソン。


それはとても楽観的で、来年即花開くかと言ったらそんな甘いこともないと思うけど、
なんだろか、
2020年あたりには、もうオリンピックどころの騒ぎじゃないことに世界がなっているんじゃないなかなあ、
などと思うわけです。
エエ。
その辺、ワリと真面目にね。

  且つ、そういう予感を感じつつも、
  「マどうなるかは分からないけど、とりあえず次回もオリンピックの準備はしとこうぜ」
  という態度を守ることのできる人間という生き物に、オイサンは深く敬意を抱くものである。

まあオイサンなんかはどこまでいってもいんちきメルヘン物書きですから、
「面白そうな方向に」しかモノゴト考えませんけれども。エエ。
いいじゃありませんか。

VRやARは、
AIと違って新しく何かを切り拓く助けになるかはちょっとわからないけど、
自動運転とかドローンとかそういうものとも繋がって生活をちょっと良くする、
「足場を固める・歩きやすくする」助けになっていくんじゃないかと思っている次第。

そういう、「足場を固め、新しくする技術」と「頭の上をどんどん突き進んでいく技術」の2面が、
合わせていっぺんに突き抜け始めた、そんなトキメキを感じた1年でした。
なんていうかね、これから先5年くらいで、地球上とそのちょっと上の宇宙のあたりは、
今よりいくらか楽しいことになり始めるんじゃないだろうか。

多分、インターネットが一般的に流布する前からネットワークに明るかった人たちは、
90年代後半頃には、これと似たようなトキメキを抱いておったのではなかろうかと思う。

そんな風潮と予感から刺激を受けたこともあって、話は知性と教養の話に戻り……
いままで漠然としか捉えていなかった、
「宇宙でわかってることやわかってないこと」がどこまでなのか? とか、
そもそもの基礎の理屈、すなわち相対性理論などに対するジブンの認識はどのくらい正しいのか? とか、
それを確認したうえで、重力とは、ブラックホールとは、光とは、時間とは……
そんなことを知ろうと思って新しく本を読んだり、
人から借りた本に触発されて、改めて日本語を勉強し直してみたり。
そんな一年でした。
その辺りの、「遊びとしての勉強」の楽しさを、新たに思い出せた年ではあったかもしれない。
楽しかった。

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ダブル小諸。上は1月、下は4月。小諸の八重桜は美しいと思う。


■様々の遊び~2016年・大体のイベントごと

 ▼1月
  ・ 9日 小諸、10回目。オマケで上田。日帰り。
  ・24日 流山。だんけつ君と巡る『ろこどる』の舞台。謎の味りん屋大活躍。ちょう楽しかった。

 ▼2月
  ・ 6日 流山2回目。ひとりで。前回巡り切れなかった川の合流地点などを見に。寒かった。
  ・11日 鎌倉へ一人で。大仏が工事中で石棺の中。バインミー、もっふるを食う。ンまい。

 ▼3月
  ・12日~13日 関西よりPe氏来訪。朗読劇を聴き、スカイツリー、東京タワー、国会議事堂とはしごする。
  ・20日 掛川、『氷菓』の聖地・加茂荘菖蒲園へ。ひとりで。突発の思い付きで日帰りする。
     素晴らしき静けさに包まれた良き旅。たこ焼きがうまい。
     ここへはまた行きたいなあ。天浜線をとろとろと旅がしたい。
 ▼4月
  ・ 3日 鎌倉へ、一人で行ったっぽいが特に記憶がない。ボンヤリした。
  ・10日 厚木から南へ海まで歩く。静けさを求めたロング散歩だったが、やかましかった。
  ・16日 小諸・11回目。桜を見に、というなんとも旅行らしい試み。
     ひとりで。ひまわりちゃんと一緒に。どっちだ。
  ・30日 山登り。明神ヶ岳~金時山に登る。縦走の真似事が出来、眺めがよく、充実感のある山だった。
  ・この頃、なんとなく腕時計を買う。必要と心境の変化に駆られて。

 ▼5月
  ・ 3日~ 5日 城端! 素晴らしい天気に穏やかな町並み。
  ・22日 ひとり鎌倉アゲイン。

 ▼6月
  ・04日~05日 上野村~酷道299号踏破の旅。峠の上でエゾハルゼミ。諏訪のシェモアなど見どころ満載。
  ・18日~19日 小諸、12回目。アラフォーと二人、前日に突発的に決め、行った先で宿泊も決めるアドリブ旅。
 ・多分この辺りで『ガルムウォーズ』を見て、あまりのつまらなさに
  『押井言論』を読み、『TNGパトレイバー』など過去押井映像作品を家で見始める。


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7月、秩父巡礼。部屋と、宿の前のガラス細工のような清流。


 ▼7月
  ・11日 小銭入れを新調。
  ・17~18日 秩父『あの花』巡礼。藤岡温泉ホテルリゾートにて共産党の偉い人(偽)に会う。秩父パリー。

 ▼08月
  ・14日 実家に帰省。石上神宮・三輪明神をお詣でる。これは城端帰りに諏訪大社に参った余波。
  ・26日~29日 北海道、21回目。名寄~朱鞠内湖~旭川・美瑛。台風におびえつつも最高の旅。

 ▼09月
  ・ 4日 J氏とJR平井駅で喫茶しゃべり。東京の片隅でラブライバーをこきおろす。
  ・17日 ひとり鎌倉日帰りぶらり旅。

 ▼10月
  ・ 9日~10日 新潟県、湯沢・美人林へ4人旅行。雨に降られるも大変楽しい旅。
  ・16日 映画『レッドタートル』鑑賞。概ね想像の範疇だが、鮮やかな衝撃も受ける。
  ・23日 映画『君の名は。』鑑賞。当たり前を積み重なて斬新を作り上げた、傑作。名作ではないが。
  ・30日 川崎ブンキョウにて、FCB・ファミコンバンド13th。『オホーツクに消ゆ』が聞きたくて。パパさん、J氏と。

 ▼11月
  ・12日~13日 長野県、伊那・辰野。紅葉を見る。ものすごいパワーのチョッチュネホテルに完全にやられる。
  ・26日~27日 なんとなく3回目の飯能。なんでだろ? ムーミン谷、多峯主山、天覧山をハシゴ。

 ▼12月
  ・ 4日 Pe氏来訪。亀有、柴又散歩。なかなか楽しかった。
  ・10日~11日 勢いづいて、飯能、4回目。『ステラのまほう』巡礼を兼ね、西吾野、顔振峠、吾野。
        同11日、テラジさん、パパさんと秘密のお茶会。
  ・24日 歳末大紳士会。新宿にて。店が大ハズしでスマヌ。でも楽しかった。
  ・25日 ケータイ変更。さらばブラックベリーさん。
  ・26日 J氏と二人、駒込あたりでぶらぶらと。六義園でラッセンをこきおろす。

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8月、帰省した実家近くで。一番下は、脱皮中に絶命したと思われるセミ。無情。



 ▼お出掛けのこと

お出掛けはたくさんした。
多すぎて、振り返ると「うお、あそこ行ったのも今年だったか!」と驚くところもある。
掛川とか。遊び過ぎだ。

最初に書いたように、アウトプットがインプットに全く追い付かず、
6月に、アラフォー&エースと行った酷道299号線走破の旅とか、
7月の秩父巡礼や8月の朱鞠内など、
どれも素晴らしい旅だったけど書き残せていないのが不甲斐ない。
朱鞠内は手元ではまとまっているが。
大体、どの旅も高密度ラッシュ過ぎるんだよ。なんで毎回毎回、ああいろいろなことが起こるんだ。
11月の、伊那・辰野の紅葉も素晴らしかった……色んな意味で。

鎌倉は、気候の良い時期なら大仏様のおひざ元や、
円覚寺山門そばのベンチで日がな一日ぼーっとしたり書き物したりできるので、
行く頻度が上がってしまった。近いし、お金もかからない。

これまたごくごく最近の話になるが、飯能へも2回行った。
気軽に登れる山が集中しているから、また何度か訪れるかもしれない。
飯能が結構好きになってきた。

その分、小諸が減った。お金かかるからね……。それでも年3回行ってれば十分だと思うけど。

見て分かる通り、お出掛けの頻度は、
もはやこれ以上増やすのは不可能なくらいの域に達している……と思う。
Twitterのフォロワーさんには、もっと信じられないような頻度で
たくさんの山にアタックしてる人もおられるけど、オイサンにはそこまではとても。
デたくさん出かけるのは構わないのだけど、やはりこう、
出掛けたら出掛けたなりに何らかの糧にしたいというのはあるし、
アウトプットには変えていきたいと思う。
そういうこと考え始めるとまた、ただのお出掛けにも面倒な枷を設けてしまいそうだから
考えないようにしてはいるが、
大事なのは、カタチにするそのやり方だと思う。

  ……ということを考えて、北海道・朱鞠内の旅日記は形式を変えて書き進めていたんだけど
  それでも結構な重量になってまだ形になっていない。
  残念だ。

一人では、山に登る機会をもう少し増やしたいとは思う。

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8月、上から早朝の朱鞠内、昼の湖畔、美瑛の電波塔。電波塔にはまた会いに行きたい。




■取り入れたモノ

 ▼本
  ・『押井言論 2012~2015』
  ・『追想五断章』
  ・『ざるそば(かわいい)』
  ・『数式なしでわかる相対性理論』
  ・『[図解]相対性理論とブラックホール』

      


ドキュメンタリー系で文句なく面白かったのは『押井言論 2012~2015』。
『ガルムウォーズ』を見た後、あまりに面白くなかったので逆に興味が湧いてしまい、
5000円もする核廃棄物みたいなこの本をついつい買ってしまったのだけど、
これがまあ面白かった。
『ガルムウォーズ』の、軽く8000倍は面白かった。
しかもクソみたいに分厚いもんだから読んでも読んでも終わらず、何度風呂でのぼせそうになったことか。
何というか、モノ、特に映像、物語を作って売るというにはどのようなスタンスで向き合うかという、
そのやり方のうちの面白い一手について楽しく知ることが出来たし、
色々と取り入れることが出来そうな考え方や、見てみると面白そうな作品のことが書かれていて、
次はその辺を確かめる作業につなげていきたい感じである。
というワケで今2周目を読んでいる。
尚、この本をきっかけに、これからしばらく押井監督作品を見続ける流れになった。

フィクション系で面白かったのは上で上げた2冊で、他にも10冊くらいは買ったはずだがどれも楽しめなかった。
やはりラノベは苦手だし、純文系もすこしそれるとキツくなる。
ただ、最近やってる英語の速読訓練のおかげで、
「興味の持ち辛い本でも大筋を掴む程度に少ない時間で(それでも人より遅いと思う)読み終える」
ことが出来るように、ちょっとずつなってきたので、面白いと思えない本でも
流し読み・拾い読みしていくくらいは出来るようになるのではないだろうか。
序盤はダメでも、ある程度内容を拾った中盤以降は楽しめるものもあるだろうし。

また、昨年手に入れたスキルの一つに、
「一時的に物語から感情の距離をおく」というのがあって、
これはなかなか、物語を楽しんでみるためには役に立つと思う。
物語の人物がヘマしたり危機に陥ったりしたとき、いままでついついグイグイとのめり込んで
心が負荷に耐え切れなくなったりしてたのだが、
それを、「マお話なのですし」と一時的に解放して冷静に見つめる技を身に着けた。
これでこの先、見るのが辛い作品とか、入口でちょっと興味もてないとかツマンナイとか思う作品も
いくらかラクに見続けることが出来るようになるであろう。


 ▼映画・映像
  ・押井作品;『ガルムウォーズ』『TNGパトレイバー』『東京無国籍少女』『28 1/2 妄想の巨人』
  ・『レッドタートル』
  ・『君の名は。』
  ・『シン・ゴジラ』
  ・登山映画:『エヴェレスト』『ヒマラヤ~運命の山』『アイガー北壁』
  ・『インターステラー』
  ・『漫勉』(藤田和日郎先生回)
  ・『百日紅』
  ・『きんいろモザイク pretty days』


いろいろ齧り見したが、どれが面白かっただろうか……。
作品としてがっつり心に残っているのは案外『レッドタートル』かも知れない。
『君の名は。』も面白かったが、サービスにサービスを重ねて、
かつしつこくないように削って削って削り取る、というやり方はとてもではないが真似の出来るレベルではなく、
一人でハイレベルにもっていけるものでもない。
サービス精神と、集団でのモノづくりについて見習うところを持っておこう、というくらいか。
その点では『シン・ゴジラ』は使えそうな発想はいくつかあって面白かった。
『インターステラー』は、ブラックホールや相対性理論のお勉強の延長。
面白かったけど、ワリと予想の範囲内。序盤が素晴らしかった。
この他にも高倉健さんの映画とかも見てみたが、あまり響くところはなかった。
健さんは萌えキャラだったんだ、ということが分かったくらいか。
しかしいろいろな作品を多めにインプット出来たことは、やはり収穫があったと言えると思う。

  あ、『きんいろモザイク pretty days』は、自分には合わないのを分かって行ってみたけど、
  本当にその通りで、いま思い出してもpretty過ぎてクラクラします。
  初めて左手で同人誌を書くのに挑戦する中学生は、コレを参考にすればいいと思います。

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秋、伊那。宿はどこまでもファンキーに、紅葉はしっとりと。


 ▼テレビアニメ
  ・『田中くんはいつもけだるげ』
  ・『ステラのまほう』
  ・『ばくおん!』
  ・『アクティヴレイド』
  ・『このすば!』
  ・『クロムクロ』

歳末大紳士会でも話題に挙がったが、昨年オタク界隈で通念的に大ヒットだったのは多分
『Re:ゼロ』あたりであったのだろう。
しかし自分的にヒットになったものと言ったら上に挙げた分で、
『ステラ』は7話の、たまちゃんのユミネへのかかわり方にシンパシーを感じ、
『ばくおん!』は6話、10話で、「バカの情熱」の潔さに心を撃ち抜かれ、
『アクティヴレイド』は作品の成り立ち自体がすばらしく、
『このすば!』には、「世界は如何にして優しくなるべきか」が的確に描かれており、
それぞれが心にぶっ刺さった。

『クロムクロ』が地味に優秀で、中盤まではほぼ光るところを感じられなかったのが、
後半からジワジワと、語りの成分といい盛り上げ方といい非常に丁寧で面白く、引きつけてくれた。
特に好きだったのは、学校の先生が剣之助の将来について真面目に進路指導する辺り。
ああいう一手を打つだけで、世界観がぐっと引き締まる。
中盤までも、ダレ気味で爆発力がないというだけで、目も当てられないというほどではないので
そう悪いものじゃない。

『田中くん』は……『のんのんびより』枠。
尚、『田中くん』『ステラ』は『のんのん』の川面監督、
『ばくおん!』は『true tears』の西村純二カントク、
『このすば!』は『これゾン』と同じ金崎監督+上江洲さんタッグと、
作り手に心を掴まれているところがある。
『ばくおん!』は何よりも、川崎マッハ・来夢センパイという
最高のキャラクターの存在抜きには語れないけれども。

  今年一年、『アクティヴレイド』のあさみちゃんやら、
  『大家さんは思春期!』のチエちゃんやら、『田中くんは~』の太田やら
  『ろんぐらいだぁす!』の葵ちゃんやら、
  結構な強力萌えキャラ勢に恵まれたにも関わらず、
  来夢パイセンの魅力はぶっちぎりでした。凄まじい。


いずれにせよ、毎クール楽しめる作品があり、
年が終わってみて心に残る作品があったことは幸せなことだ。
なにより、『ばくおん!!』『ろんぐらいだぁす!』『大家さんは思春期!』のそれぞれのOPで、
ステキな歌詞に出会えたことは心の活力になった。



 ▼ゲーム
  ・『ミラクルガールズフェスティバル』
  ・『マクロスΔスクランブル』
  ・『レコラヴ』

ゲームは……例によってあんまりやれていない。
けれども、『MGF』をトロフィーコンプリートして、今はわりと楽しく『マクロス』をやれている。あまりスマートなプレイではないけど、昨年から考えると大きな進歩だ。
少なくとも、ゲームを楽しんでいこうというマインドが心に再び萌し始めていることが
個人的には嬉しい。良き哉。
今年は恐らく最後の『ドラクエ』になるであろう(という勝手な予測)、
『ドラクエ11』が出るし、ニンテンドーSWITCHも出るしで、
しっかりと、ゲームを楽しめる心と体と環境を作っていきたい。

 ▼『ドラゴンクエストXI』オープニング映像
  
  なぜでしょう、このOPを見るとすごくドキドキします。『ドラクエⅣ』の時と似ている。


……しかし、こんなことを考えながら年を重ねていくのかね。
マいいんだけどさ。そういう人生だから。


 ▼お金ほしい。

あとね、お金がない。お金が欲しい。
イヤないワケではなくて食うに困る貧窮の仕方はしてないけど、ちょっとこう……心がキュウキュウとしてきた。
だから昔を思い出して、びんぼう根性丸出しで行こうと思う。
マ自分がお金のことで汲汲とするのは、金銭感覚がおかしいせいなので
仕方ないといえば仕方ないのだが。
あーお金ほしい。
2017年も引き続き、お金を欲しがっていく気持ちだけは強く持ち続けていこうと思う。

あとはまあ……親が、何かのはずみにどうにかなってしまっても、
……イヤ実際はまだ早いとは思うけど、しかしそれでも「不思議ではない」境に達しているので、
そういう気持ちづくりはしておかないといけないかも知れない。
その上で、変わりなく、穏やかに接していきたい。

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鎌倉。下は、早く来すぎて大仏の開店待ちのガイジンさん。かわいい。




■Closing~それらを踏まえて、2017年のこと



そんな感じでして、2016年は、
「色々ため込めるだけため込んだ(ため込んでしまった)」年だったな、と思う。

アウトプットが追い付かない病については、体を動かすことを制限して対処する。
そして時間も体力もセーブして、アウトプットにしっかり回す
(時間と体力をセーブすれば、おのずとMPにも余裕が出来るので)。
そうなると当然、インプットも減らしていく必要がある。
カロリーという意味でも、情報という意味でも。

今年も色んなところへお出かけてしまうのだとは思う。一人で、紳士で、家族で。
must事項として「秋に親を金沢へつれてく」があるので、
そこを軸にバランスよく配置していくしかないだろう。

信州・北陸方面は、紳士会議の高潔な魂によって決定されるので、
私ごときにコントロール出来る物ではない。決定に従うまでだ。

一人では、西の方へ行きたいと考えている。中国地方方面へ。
大学時代の友人がいて、松来さんの生産地で、
『ゆるゆり』……じゃないや、『げるぐぐ』……でもなくて、『たまゆら』の聖地であって、
『田中くんはいつもけだるげ』の聖地であるところの広島に行きたいなあ、と。
宮島も、小学校の修学旅行以来、見たい。
小・中・高と修学旅行は行っているけど、小学校のが一番印象に残ってるってのはどういうこっちゃ。
みんなそんなもん?

近場では、忍野八海へも行こうと思う。
今年も水がきれいなところへ行って、水のお写真をパキパキと撮りたい所存のオイサンです。
新造人間ショゾーン。
小諸へは、とりあえず3回行く。春、秋、冬。
北海道は1回だけになると思う……イヤ、普通そんな年に何回も行かないと思うケド
(小諸かてフツー年に3回も4回も行かんわ)。

 ▼1月~3月
  ・北海道
 ▼4月~6月
  ・小諸1
 ▼7月~9月
  ・帰省+西方面?
 ▼10月~12月
  ・金沢
  ・小諸2

……という軸の合間に、紳士遠征が挟まる感じになっていくだろう。
……っていう話をだな、いま北海道で書いているのだが、どうしたものかね?(しらんわ)

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2017年は、とにかくゲームだ。
ニンテンドーSWITCHが出る。『ドラクエ11』が出る。
VRも本格化するだろうから、PS4は導入が必要になる。
きっと『セイレン』もゲームで出るだろう……まあシステムに魅力がなければやらないけど。
瑞々しい感性を保って、素直な態度で、「面白い」ものをまっすぐに受け止められる人間になっていきたいと思う。

アウトプットの仕方については悩んでいる。
結局のところ、自分の手の遅さ、段取りの悪さ、作ろうとする物の性質、時間配分の下手さに踏ん切りの悪さなど、
あらゆる要素が悪い方へかみ合っているので、
何かを諦めるか、どこかを変えるかするよりほかない。
自分のためにもならないので……早いトコどうにかせんとなあ。


  ▼2017年という「歳」

今年2017年は、21世紀に入って17年目。
言い方を変えると、21世紀さんがセブンティーンにおなりになる。
青春真っ盛り、高校2年生です。
かつては誕生を嘱望され、お生まれになった時は周りから盛大にチヤホヤされたおしたというのに、
今となっては口先ばっかり立派でなかなか見向きもしてもらえない「新しい時代」さんが、
ようやく自分らしさを発揮できる自我を手に入れ、視野も広がり始める……なんなら、
サカリの付き方もよーやく板についてきた、そんな時期に入る。
ここらでいっちょ、21世紀ここにアリ、
部活に勉強、恋にオシャレに大忙し! なトキメキをほとばしらせてくれるんじゃないかと、
オリンピックもワールドカップもないイベント不在の年ではあるけれども、
その分、時代さん自身がなにやらこう……熱い情念を爆発させてくれそうな、
そんな予感をオイサンは感じるワケです。

そのワリには自分の方針は、
「衰えつつある肉体にペースを合わせていく」
なんて、随分夢もイキオイもないアレなんだけど。

来年の今頃には、この世界にどこからどんな横やりが入って来ててもおかしくない、
そのくらいのひずみの存在を、このところ、時代の空気に感じているオイサンです。
果たして、鬼が出るか、蛇が出るか。
ヌージャデル・ガー。




……このネタ、随分前にもやった気がするな。
マいいか。誰も覚えてないだろう。
オイサンでした。
今年もヨロシク。


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上から、スカイツリーvs偽スカイツリー、飯能の妖精、小諸。一番下のが'16年ベストかなー。



……あと、若者に煽られたので今年は「マリモ食べ力(りょく)」を鍛えようと思います。
どうやったら鍛わるのかしらねえけど。
だからとりあえず道東に来た。



オイサンでした。


 
 
 

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2016年11月27日 (日)

■マンガを持て、そして山へ行こう。~3度目の飯能へ疲れに行こう~ -更新第1096回-

皆さんおはようございます。
あなたの夢のとびら、オイサンです(てきとう。

飯能に来てしまいました(書きながら今いる)。

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特に大きな理由や目的はありません。
出掛ける前々日の晩は「また小諸に行くか」と思っていたのに、
その翌日、つまり金曜の朝には「うむ、飯能にしよう」になっていた。
特段、『ヤマノススメ』でどうこうしようとかいうつもりがあるワケでもなく
ただブラブラと。

  ちなみに、最初に飯能にお邪魔したのも11月の最後の土曜日だったご様子。
  全く同じタイミングでびっくりした。
  時期的になにか感ずるところがあるんだろうか、飯能に。
  初冬になると飯能物質ハンノミンでも出すとか?

   ▼ここがあたしのB.C(ベースキャンプ)~オッサン、飯能へ行く
    (前篇)  /  (後篇) 

  尚、2度目の訪問はトシが明けて2月の頃だったように思う。

   ▼星空のメッセージ~笑顔をさがして。
    http://ikas2nd-special.cocolog-nifty.com/ybsk/2015/03/-973--9be3.html


ブラブラのルートが、上記の1度目・2度目のコース……、

 ・飯能駅南東側の、入間川沿いにあけぼの子どもの森公園まで歩くパート
 ・飯能駅西側の、吾妻峡+多峯主(とうのす)山+天覧山


……を合体させたものを1日で回るものだったので、
結果、ワリとスパルタンなことに。またか。

  04時半頃 起床
  05時半頃 出発
  07時過ぎ 飯能に到着
  08時半頃 朝ゴハン+宿に荷物を置いて出発
   :
   :
  16時半頃 全行程終了、帰宿

という、ほぼ歩き通しの8時間。レンジャー部隊の訓練か。
当然昼に休憩ははさみ、常時フルスピードというワケでもない。
それでも歩いてる最中は元気だったが、宿に帰った途端ガクガクになった。
やべえ。
しかし飯能、チョイ町+田舎の、相変わらずバランスのあまりよくない具合の中、
自然の風景は綺麗だったのでその辺中心に書き留めておこうと思う。
……飯能なー。
なんていうか、「埼玉」という都下ブランドが、
ひとえに実に悪い方向に作用しているように見えるな。
「都会なんでしょ?」みたいなさ。全然便利良くないんだけどね。

そのせいで、ひと気を嫌う田舎好きする人も来ないし、町を好む人も来ない、
みたいな扱いになっている気がする。







 ▼東飯能・立ち食いそば『奥武蔵』

7時過ぎ、東飯能の駅に降りる。
朝ゴハンを軽くしか食べてないのでどうしようか迷ってたところ、
駅目の前の「奥武蔵」という立ち食いそば屋が開いていた。
鬼のように渋い店構えにも引かれて入ってみた。朝定食、530円。
「シャケとアジがあるよ」とのことだったのでアジをチョイス。
立ち食いなのに全席イスあり。ステーキ屋でさえ椅子をおかない近年にあってはかなりロックだ。
飯能駅まで歩く。

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 ▼飯能駅・観光案内『ぷらっと飯能』

宿に荷物を預けるついでに、駅の観光案内所に立ち寄る。
以前来た時よりも、聖地化に力を注いでいるご様子。感心だが、現金なことだ。
フツーに周辺地図だけもらって立ち去るつもりだったが、
欲が出て「写真撮らせてもらっていいか」と尋ねたところ一発で
「『ヤマノススメ』ファンの方ですか?」と見抜かれる。
ファンって言わないで!! なんか恥ずかしいから!!
もっと
「……ああ……はい、ご自由に(うわっオタクだ気持ち悪っ。あんまり話さんとこ)」
って接して!!

  ▼ぷらっと飯能
   http://hanno-tourism.com/about/annaijyo/01annaijyo_plat.html

尚、前回来たときは品薄で貰えなかった『ヤマノススメ』版観光案内も
今現在は潤沢に増産しているようで、何も言わなくてもスッと貰えてしまいました。
「ここなの飯能大冒険」版も一緒に。
ムウ、訓練されておる。
ダメですよ、あんまりオタクを甘やかしちゃあ。連中、すぐに図に乗るんだから。
人に褒められたり親切にされることに慣れてないんだから。

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 ▼あけぼの子どもの森公園に向かう

と、せっかく「ここなの飯能大冒険」版案内図をもらえたので、
なるたけエンジェルここなの足跡を忠実にたどりつつ、あけぼの子どもの森公園へ向かってみる。
前来たときは本当にてきとうだったからな。
写真は、川べりに広がる矢颪(やおろし)凝灰岩層の地形。
白くズルズルした泥の様な土が靴にまとわりついて、滑るし歩きづらい。
ここなちゃんもここで白濁まみれになったのかと思うとフキフキしてあげたくなります。 ← 図に乗ったオタク

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 ▼あけぼの子どもの森公園 新企画、頓挫

駅からあけぼの子どもの森公園までは6㎞弱。1時間ほどで到着。
前回既に来たところだから特段の驚きはない。
メインのキノコの家が、今内部改装中で入れなかった。
1月まで?のヨテイっぽい。
行くつもりの人はご注意。

  ▼あけぼの子どもの森公園内の建物「きのこの家」空調設備改修工事のお知らせ
  [ 飯能市 ]


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しかしまあ、もとからこんな素っ頓狂な見た目の家をさらに改装だなんて、
依頼された匠も頭が痛いでしょうな。
「これ以上、どう劇的アフターにすれば……!!」なんつって(そういう趣旨の改装ではない)
いっその事、全然普通の和風建築にするとか、
建売2×4の、安っぽいプラモみたいな家を建てて見に訪れた人を驚かせるとか
すれば良いのではないだろうか。かなりシュールな絵面だが。
オイサンは娘ちゃんに立ってもらって撮影。
青い水遊び小屋? には前回入れなかったので入ってみたら、なかなか面白い写真が撮れた。
雪がちらほら残っている。

しかし場所の雰囲気がら、ここなちゃんよりも、継続高校のお三方が現れそうな雰囲気である。
写真は道中見かけた、
地面に埋もれて敵チームを待ち伏せするカール自走砲のようなもの(うそを書くな)。

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デ、今回こちらを訪れた主な目的は……ここから阿須山に登るハイキングコースなのだけど……
落石があったとかで通行止めになっていた。
ぬおー。

  ▼あけぼの子どもの森公園内から桜山展望台へ向かう園路の一部通行止めについて
  [ 飯能市 ]  

今回唯一の新企画がさっそくポシャってしまい、こんどこそ新鮮味の全くない
飯能おさんぽ会になってしまった。マいいけど。
新しいことが何もない方が落ち着いて回れたりもするからね。
そんなこんなで、小一時間ばかり園内にとどまってぷらぷら写真を撮って遊んだ。
当たり前だけど、小さなお子様連れのご夫婦が多いね。

池の畔で三脚立ててピクリとも動かないガチの写真撮りと、
犬畜生を連れて嬉しそうに犬コロの写真を撮り続けてるご夫婦なんかもあった。
人生いろいろだ。 ← よけいな勘繰り

そういえば、ここで掃除のオジサンが話しているのを聞いて、
メタセコイアのことをアケボノスギということを知った。

あと、昨晩だろうか、公園入口の自販機が壊されたご様子で、
パトカー2台に大勢のおまわりさんが駆けつけ若干物々しい雰囲気も。
ムーミン谷の入口に人間のお巡りさんがたむろしてるのもなかなかシュールな画であった。


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 ▼cafe『Hotpot』

公園のお隣、カインズホーム裏手にあるカフェ、Hotpotさんでお昼ゴハン。
外見えは一見こぢんまりとした、サブカルこじらせクソアートヒゲ親父がやってそうな店構えだが
(偏見が激しい)、
中に入ってみると、これがなかなかどうして、
どちらかというとファンシー乙女マインドをこじらせた北欧にイメージだけで憧れた老女が
一人でやってそうな内装だった(いちいち偏見が酷い)。
いや、いい雰囲気ですよ。ホントに。オイサンの良心がねじ切れてるだけです。

  ▼カフェ&レストラン Hotpot
  https://tabelog.com/saitama/A1106/A110602/11014874/


ハンバーグランチ美味しかった。しかしここは雑炊にするべきだったか。
居心地が大変良かったので、セットのコーヒーが運ばれてくるまでの間にウトウトしてしまった。
なかなか繁盛しているご様子なので、こちらも来られる方は早めにした方が良いと思われる。
オイサン、開店11時に入って12時前には出たのに、お店を出るときにはほぼ満席だった。

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 ▼吾妻峡

お店でウトウト出来たので体力回復。
ここからもと来た道に沿って入間川をさかのぼり、紅葉の名地・吾妻峡へ。
そこからさらに東にわたって、多峯主(とうのす)山、天覧山と、前回とは逆ルートでめぐります。
……散々歩いた後に山登り2連戦という、
まるで最後に水泳があるトライアスロンのごときスパルタン構成。

しかしそんな田舎道も、飯能さんは田舎だけあって、素っ頓狂な看板には事欠きませんね。
地獄から来たグッドデザイン賞を総なめに出来そうで退屈しない。
あおいやひなたのセンスも、この中で磨かれたものと言って差し支えない。

  ……つーか、作者のしろ先生からして
  ここでもまれて一流マンガ家の仲間入りを果たされたのであろうから間違いない
  (しろ先生のセンスがトンチキのたまものみたいに言うな)。

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そんな中でも、吾妻峡の美しさはホンモノ。
規模の丁度よさと美しさのバランスがナイスマッチ。
手の届くサイズ感がお気に入り。
オイサンとは逆方向、すなわち山登りを終えた方々が、続々と下って来られる。
まあもう2時ですし、そろそろ山登りはおしまいの時間帯だね。
それにしても美しい水の流れに、オイサンは捕まってしまう。

あああと、そうそう、吾妻峡にたどり着く途中でトイレが我慢できなくなってしまい、
子ども図書館でトイレをお借りしました。

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 ▼多峯主(とうのす)山

吾妻峡を抜けてどれみふぁ橋を渡り(別に音が鳴るわけではないぞ)、
一見ラブホテルみたいな幼稚園をパスすると、すぐに多峯主山の登山道が始まる。
こっからは、マただの山です。標高たかだか270mとは言え、山は山。
その倍程度の生駒山に登ったときに死ぬような思いをしたのを忘れたかオレ、油断するな。

まハイキングコースがしっかり整備されていて、
近隣の方なら犬の散歩にだって来てしまう山だからビビるようなものでもないけど。
ザクザク登れば小一時間とかからず、山頂。
ハイ着いた。
飯能のセクシークイーンの健在ぶりも確認できたし、満足。
さあ次に行こう。

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 ▼天覧山

続きで天覧山。
こっちは200mにも満たないので、ここまで15㎞ほど歩いた負債があるにせよラクショーラクショー……
と思っていたのに実はここからが曲者で、
前日? そんなに雨が降ったのか、地面がドロドロのびちゃびちゃでズルズル。
ひとたび滑れば、そのままどろんこプロレスの世界にスカウト確実なトリックステージに早変わり。
ぬおおおお、自然さんはなぜこうも千変万化なのか!
少しは人類を、優しく包み込んでくれても良いのではないか!?
ぬかるみに足をとられないよう歩くのに大変神経を使ってしまった。

途中、オイサンを追い越していった地元の方と思しきオジサンは、
あまりに泥具合にお散歩中だった愛犬のラブちゃん(そう呼んでいた)を自ら抱きかかえて歩くという
意味の分からない所業に及んでおられた。大変だな犬の散歩も。

  けど、犬に「ラブ」って名前付ける人結構いるよね。
  アレ、元ネタとかあんのかしら。
  ラブ。
  相手は人間のことを、自動エサ出しマシーンくらいにしか思ってないのにね。

   人間「ラブ、おいで、ラブ!」
   ラブ「呼んだ? 自動エサ出しマシーン! エサくれるの? 自動エサ出しマシーン!」
   人間「ははは、ラブはかわいいな! お前は私たちの家族の一員だぞ!」
   ラブ「自動エサ出しマシーン、何言ってるか全然わかんないけど、
      あとでエサ出してね、自動エサ出しマシーン!」


  こんな感じであろう。
  見知らぬ壮年の男の犬の散歩をこき下ろすのはこのくらいにましょう。

多峯主山の山頂から天覧山の山頂までは……1時間はかからないねえ。
ヌカヌカ地面を除けば、何も困ること、辛いことはなかった。
ちなみにどちらの山の山頂も、ひっきりなしに登山客が訪れて、絶えることはなかった。
小さい子を連れたご家族連れも多かった、そんな程度の山です。
しかしそれもまた『ヤマノススメ』という作品の良くできたところで、
ホント、「天覧山に登ることだって登山で、必要以上に危険や辛さに警戒することはないんだ」
と思わせてくれる辺りが大変に優れたガイド役であると、オイサンは思う。

  マとはいえ、山登りは先へ進めばそれなり以上に危ない行為なので、
  そこの境目に立ち入ったときに上手に気が付けるようには、当人がならないといけませんけども。

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……そうそう、辛いことといえば、天覧山を下るときに、
ヒョロメガネの男大学生3人組が『ヤマノススメ』ごっこをしながら
「ひなた~待ってよぉ~」とか甘えた声を上げながら上がってきたのとすれ違った
のが辛かった……かな。
「オッスおらここなちゃん!!」
とでも言ってやれば良かっただろうか?

とまあ、そんな心霊体験をしつつも……
前回来た時も思ったけど、天覧山の紅葉は、本当にきれいだね。
植わっている木々の種類がそうさせるのだろうけど、
赤・黄・緑のバランスが良く、光に透けて淡く輝く色合いがたまらなくいいです。
伊達に天覧の名を冠していないと思う。


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ふもとのコンビニも聖地として有名。
前回来たときより『ヤマノススメ』コーナーが充実しておったように思う。
中学生くらいの女子が熱心に巡礼ノート書いてたのも印象的だった……
JC辺りにもウケてるのかー。
良かった……薄気味悪いオッサンとヒョロメガネ男大学生しかいない世界じゃなくて
本当に良かった……。

……しかしこの後、そんなオイサンのささやかな安堵を叩き潰す出来事が……


 ▼飯能駅前、商店街

ヤロウドモに土産でも買って帰るかってなもんで、
やってきたのは飯能銀座の『夢彩菓すずき』さん。

  ▼夢彩菓すずき
  http://www.yumesaika-suzuki.co.jp/
  こう見えて、明治から100年以上の歴史を誇る老舗。


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『ヤマノススメ』ではあおいちゃんのバイト先です。
店の表には制服の、店の中にはお店のユニフォーム姿のあおいちゃんのPOPが立ってます。
しかしこのPOPがのちのち悲劇を呼ぶことに。

買い物を終えて立ち去ろうとしたとき、
オイサンの前に会計を済ませていたヒョロメガネ男大学生(らしき)人物が、
店員さんにカメラのシャッターを頼んでおる。
なるほど、まあそうじゃないかと思ってはいたが、君もヤマにススム感じか。
店員さんも慣れたもので快く応じておられたが、
その彼のとったポーズは、取憑くように、POPを横からを抱きすくめる姿であった。
お、おおう……。
……そうか、うむ、そうか。
うん。いいんだけどね。お店が良いというなら。
元気があっていいと思います。

帰る道すがら、お腹が減ったので老舗の喫茶店、『コーヒー 苑』さんで
クリームシチューを食べてフィニッシュ。

ここはもう、すっかり古くからある地元の常連さんたちの集会所のようだね。
『ヤマノススメ』一切関係ナシ。
競馬のハナシやら病気のハナシやら、地域どころか個人レベルに根差した話題が飛び交う。
それでも居心地は悪くない(というかオイサンが気にしない)のでゆっくり出来た。
うぬぬ、寒いところから暖かいところへ入ってゴハンまで食べるとねむみがマッハじゃわい。
うつらうつら。
4時起きでノンストップ長時間登山してるから無理ないがのう。
しかしまだ眠るわけにいかぬ。
本屋に寄って、今日発売の『ひだまりスケッチ』の9巻を買うのだ(時事ネタ)。
……というワケで、駅ビルのPePeに寄って購入。風呂で読もう。

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■2日目



2日目は雨予報だったので特に予定はなく、
ちょっとお店を覗いてゴハン食べて帰るだけのつもりだったのだが、
そのお店、駅前の山用品店『山遊人』で、お店のご主人(女性です)に声をかけられた。

  ▼山遊人
  http://san-yu-jin.com/

なんだ、このお店も聖地だったのか。
単行本10巻であおいが……あおいと言っても葵ちゃんではないぞ……
あおいがザックを買い替えるときのお店がそうらしい。
「これが私!」と描かれた店主を指さして説明するご本人。そうかよww
今回はどこに行ったのかというハナシから近辺の山やルートの情報を教えてもらったりした。
いつから『ヤマノススメ』関連の活動をされてるのか知らないけど、
『ヤマノススメ』から山や飯能に興味持つ人が増えてきて、
そのまま飯能が好きになる人が多くてうれしい……と、
ム?
前にもどこかで聞いたような話を嬉しそうにしてくれた。
そうかそうか。
2年前に来たときはまだまだそこまで、町で盛り上がってる感じはしなかったけど、
今ではすっかり愛されているのだな。結構結構。



……の割には。



あっちこっちで置いてる公式らしきグッズの版権絵プリントが解像度低いのは改善されてないけどな!
もう少しクオリティを上げてくれんか……。ザラザラなんスよ、絵が。
等身大POPとか。

ここでは手ぬぐいと、フツーにインナー手袋を買った。通勤用に丁度いいんじゃよ。
すると「これは非売品なのですが」と、「三期熱烈希望!!」と書いたステッカーをくれた。
この手ぬぐいは良いな。


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 ▼珈琲館

2日目の昼ゴハンは、上記の『コーヒー 苑』の通りの向かい側にある『珈琲館』で。
チェーン店だが、ここは『ヤマノススメ』推しでグッズやらも売っている。
店長の趣味だろうか。特に何も買わなかったが。
フツーに焼きサンド食ってアイスコーヒー飲んで、おしまい。

前はここでマグカップとLEDライトを買ったのだった。どちらもまだ家で健在。
LEDライトの方は、摩擦でここなちゃんのプリントが消えてしまって
ただのLEDライトになっているが……灯りは点く(それはキャラグッズとして健在と言えるのか?)。


 ▼謎のバス車庫

飯能駅から東飯能へ向かう途中、バスの車庫があって、
そこに『ヤマノススメ』ラッピングバスが数台まとめて停まっていた。
おお、なんという偶然……ていうか、コレはあまり有難味がないなw
お蔭で何種類も絵柄をいっぺんに収められたけど。いいのかコレは。

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■Closing



以上で、飯能訪問3回目、ぶらり飯能タンノー散歩はおしまい。
ホントは4回目なんだけど、3回目は秩父のついでに寄っただけなのでノーカンにしておく。
思ったよりも満喫したような……気がする。
予想と何が違ったのかわからないが、随分楽しかった。

しかしやはり、徒歩20㎞・8時間連続活動は老いた体にそこそこ堪えたようで、
1日目宿に着いてからは、体がグネグネとぐったりしてしまって
宿でしたいと思っていたことに手がつかなかった。ちょっとゲームが出来たくらい。
無念。


 ▼「疲れ」の面白さ

しかしこの、なんだろうね、「疲れ」というものの正体は、いったい何なのであろうか?
栄養を摂り、風呂で体も温め睡眠をとっても、疲れというやつは残る。
癒すだけの材料は揃え手続きも踏んでいるのに、それでも尚、消し去ることは出来ない。
なんだかそれが理不尽なようにも思えてくるのだった。
筋肉だとか、内臓だとか、そういうものの使用負債であることは勿論なのだけど……
今回のように、極端にダメージを与えるようなことをしたわけではない、
ただ緩やかに延々と使い続けたときに、
それらよりももっと奥深い、芯の部分に刻み込まれ、滲み出す「疲れ」は……
筋肉や内臓ではない部分から感じているような気がする。
骨とか、違う部品の細胞の隙間が熱を持っているような感じがする……。

別に、「だからなんだ」って話ではないのだけど、
今日、歩き終えてベッドで横になりながら、ハッキリした意識の中で
ただジンジンと熱を抱いて動こうとしない体のことを思っていたら、
「疲れってなんだろう」という疑問が湧いてきたので書いておいた。
「疲れってなんだろう」と、当たり前のことを考えている自分も面白かったし、
分かっているようで分かっていない、
誰もが体で理解しているからこの上もなく具体的なようで、
それなのに根本は理解されていないという意味で抽象的な「疲れ」というものに、
このとき初めて向き合った気がして楽しかったので、書いておこうと思った次第。
これも一つの収穫だ。


 ▼マンガを持って、山に登ろう。

こうして聖地巡りなんかを楽しんでいて、
地元のフツーのアニメに興味なんかなさそうだった(何なら今でもなさそうな)人たちが
アニメのキャラクターのことを知っていたり、グッズやPOPを取り扱っていたりするところを見ると、
長年、白眼視されたり、
迫害を受けてきた(刺激的な物言いではあるが決して言い過ぎではないと思う)者としては、
嬉しい限りだ。

  ……あのね、何が嬉しいって、別に、自分が暮らしやすくなったこととか、
  ヒドイ扱いを受けなくなったってことじゃないのさ。
  グッズを買いやすいとか、町なかでキャラや世界を見かけられることでもないのよ。
  そんなのは自分が我慢したり、苦労したりすればなんとでもなる。
  「アニメや漫画やゲームが面白い」ことが、
  他の映画やらドラマやらスポーツやらがそうであるのと同じように、
  フツーの人でも理解できるようになって、楽しめるようになったことが良かったなあと思うのよ。
  「こんなに面白いものが、なんで皆分かんないんだろうか? 
   分かんないハズないのに、他と同じなのに」
  と、ずっと思ってたんだから。
  とはいえ、オイサンにもわからない面白さはあるから自分の領域のことばかり言えないけども。


しかし、「住みやすい世の中になってきたなあ」と思うのと同時に、同じくらい
「な、なんだかおかしな世の中になってきてしまった……」とも思うのだけれども。
けど、アレだね。
オイサンなんかは昔からそうだけど、アニメ・マンガ・ゲームっていう媒体が、
それらが物語る世界に興味を持つためのゲートウェイとして
しっかり機能し始めたというのは、非常に健全なことだと思いますね。

ただのサッカー少年を『キャプ翼』がサッカー選手に育てたように、
マンガを読んで、アニメを見て、旅行してもいいし、山を登ってもいいし、
ギター弾いても自転車乗ってもバイク乗ってもいいし、
化学の世界、星の世界、栄養や医療の世界に興味を持ったっていいわけで、
そこにある覗きこまなければ知りえないドラマとかロマンとか、あるワケで、
学ぶために、そして無闇な勢いで背中を押されるためには、恰好の材料だと思うのですがね。


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「書を捨てよ、町へ出よう」と昔の偉い人は言ったというが、
……そんでその原版をオイサンは読んでないから裏があるならそれは分かんないので
  言葉の意味そのままにとるが……
書は読んで、その手にずっと携えたまま、町へ出ればいいと思うよ。
FEEL×ALIVE!



オイサンでした。



……あと、同じ手放すにしても捨てずにブックオフへ持っていけば、
イザと言うとき町で遊ぶ足しになるよ。
あーお金欲しい。



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