2017年4月22日 (土)

■春を奉る、花の惑い。~中村博文先生の個展を鑑賞する -更新第1120回-

何度目かの春を抱きしめる。

寒いの暖かいのを乗り越えて、ようやく本当に暖かくなってきた。
っていうか今度はあったかすぎてイヤなんだが。
春が短い。
オイサンなんかは寒いままの方がありがたいので暖かくならない方がいいし、
何なら春独特の浮かれた感じも苦手なので短くてもいいのだが、
世間的にはそういうわけにもいかないだろう。

関東近辺はすっかり桜も見ごろを超え、
夜にはシゴトバで夜桜見物なんていうイベントもあったのだが勿論参加しなかった。
桜もお酒も得意じゃないのだもの。
しかしその桜も風が吹いたり雨が降ったりでどのくらい無事だったやら。

まあそんなことで、
桜があまり得意でないオイサンのこの時期の花と言ったら、
梅、桃、あたりであるが、最近になってそこにハクモクレンが加わった。

そのことを書いたひと月ほど前の日記がそのままになっていたので、
せっかくだから載っけておこう。



■3月25日 花を撮る



なんやら、暖かくなってきてしまったと冬との別れを嘆いてみせた甲斐があったのか、
今日はもう真冬のごとき寒さで、おまけに雨まで重なり、
心構えがないせいもあって正月に行った釧路よりも寒く感じるくらいであった。

寒い寒い。

寒いのはともかく、この雨や風で大きく開いたモクレンも散ってしまうのではないかと
それがちょっと心配である。
今年のモクレンは、まだあまり上手に撮れていないので
まだ散ってもらっては困るのだが。そんな自分勝手な困り方があるか。

花はまあ、撮るのはどれだって難しいが、
……それを言ったら花以外だってなんでも難しいのだが、
とにかくモクレンもご多分に漏れず難しく、
あの独特の浮遊感、みたいなものを写真でしっかり表現するのがなかなかに難しいな、
と感じる。


Dsc01534


あの細い枝のところどころに大きく開くモクレンの花は、
クリスマスツリーの飾り、ぽつぽつともる大きな電気の灯りの様でいて、
木の背いが高いせいもあって、下から見上げると空に浮いているように見える。
しかもみっちりと花をつけるのではなく、疎らな時期は特に、
花と花の合間から空が広く覗いていると、本当に宙を舞うように、
降りてくるのか、舞い上がるところなのかはわからないが、
青い空に象牙色の不思議な乗り物がフワフワと浮いているのではないかと思えてくる。

思い返してみればモクレンの花を気にするようになったのは、
アニメの『ディーふらぐ』のおかげだ。
マおかげって言うほど恩恵があるわけじゃないけども。
『ディーふらぐ』の聖地巡礼で千歳烏山に降り立った時、初めてモクレンの木を撮った。

  厳密には聖地でもなく、キャラの名前の元になってる京王線の駅めぐりであった。
  モクレンを知ると同時に、謎の白いギターを持った見知らむオジサンに、
  「コンビニでラーメン買ってくる間みていてくれ」
  と、その白いギターを預けられたりもしたので、恩恵はプラマイゼロだが。

その時はその木がモクレンだということも知らず、
青空に、象牙色に近いクリーム色が、高く良く映えるものだなあと、
ただ感心しながら撮った覚えがある。
それ以来春先にモクレンが花をつけ始めると、
その浮遊感をどうにか表現しようとしてカメラを構えるのだけど、
なかなかうまくいかないものだ。

そんなに花の名前を知っているわけではないが、
それぞれの花の良いところが最大限に生きるように撮ろうとすると、
これはこれで、きっとやりがいのあるテーマなのだろう。



■花を奉る



花と言えば……と言えるほど繋がりは強くないかも知れないが、
イラストレーター・中村博文先生の個展を見に、秋葉原まで行ってきた。

Atrdsc_0372


中村博文先生と言えば、
個人的には『ソード・ワールド リプレイ』のバブリーズの章がやはり一番親しみ深いが、
他にも『ガンバード』のキャラデザが思い出深い。
一般には『蓬莱学園』なども有名であろう。
最近ではムフフな成人向けマンガ誌の表紙やらをよくお描きになっているらしい。





過去の画集、『姫栗毛』も持っているのだが(どんなタイトルだ)、
先生はオリジナルの絵を描かれるとき花をフィーチャーされる場合が多い。
額縁のように、特定の花で主題を囲ったり、登場人物と花を絡めたり。
その花が美しくまた多彩でなのである。
折々に調べてお描きになるのか、そもそも花に詳しいのか知らないが、
先生独特のあの、金・赤・紫の極彩色の画面に、
至極自然に柔らかな花をちりばめてくるからすさまじい。

あの滑らかなグラデーションに大量の色の洪水は
てっきりデジタルで描かれているものだとばかり思っていたが、
今でもガッツリアナログでお描きになっているようだ。
いやはや、モノスゴイ。

しかし自分は、こういう展覧会に行くと毎回思うのだが、絵を見るのが苦手だ。
難しい。
その世界をキチンと見るのに……鑑賞出来るモードに入るまでにえらく時間がかかる。
今回も、何を考えながら見ればいいのかなんとなくつかめるまで
40分近くかかってしまった。
そしてその頃には疲れ始めているのだから始末に負えない。

音楽はその性質上、全体像に触れようと思ったら時系列を追ってしか聞き切ることが出来ないし、
物語や文章、動画も大体そうだ。

  話の本筋とは少し外れるが、なかでは、文章は特異だと思う。
  前から順に追ってでないと理解できない人もある一方で、
  全体をパッと、文字列を図形的に読み取って理解できてしまう人もある。

しかし絵となると、作品の全体に触れる、すなわち「見る」のは、ある意味、一瞬で終われる。
一目見れば、それで完了だ。
絵描きの目を以て細部や技法にこだわって見るのでなければ、
世界を体に取り込むのに、時間は必要がない。光さえ届く環境であれば、本当に一瞬だ。

キチンと見る、鑑賞のためには何らかの動機や着眼点が必要で、
それを探り出すのに時間がかかってしまうのだった。
パッと見て、好き嫌いを言うだけならホント一瞬で終わる。

  マ音楽だって時間かかるはずなんだけどね。
  ただ、鑑賞と時間が1対1に規定されているから、その時間のうちにどこかで理解が追い付き始める
  (必然的に設定された時間のうちに、着眼点が自然に発生してくる)だけだ。

別に、パッと見て「ハイ好きー」「ハイ嫌いー」でだっていいのであろうが、
どういう要素がどのように好きなのかを語れないと、……つまんないじゃんw?
そこまで取り込んで落とし込んでおけば自分の引き出しにもなるワケで、
それが真に自分が好きな理由なのかどうかは、まあ定かではないけれども、
何かを作るときの手掛かりには出来る。
どうせ見るならそこまでしておきたい。

会場では、画集やら、複製原画やら、即売会で実際使われたPOPの販売などもやっておられたのだが、
あまり高い物は買わなかった。
画集と、
先生お気に入りのブレンダーがブレンドした紅茶のティーバッグセット(なんなんだ)などがあったので
その辺を買って還元してきた。

Dsc_0373

Dsc01684

Dsc01689


『フリクリ』の、カンチとマミ美とキツルバミ、ニナモの描かれた版権絵があって、
もしその複製版画が売られていたら買っちゃいたいくらいそれは良かったのだけど、
残念ながらそれは売ってもいないし写真も撮れない、
画集にも載っていないというシロモノであった……。
くっそう、一番いい絵が手元に残らないのか。
しかしまあ、だからこそその場に行った価値がある、という言い方も出来るもんだが。




  ──その帰り道に、不思議な体験をした。




と言っても、オカルトな体験ではない。稀有な感覚を味わった、という方が正しかろう。

市ヶ谷と九段下を結ぶ靖国通りの裏手、
市ヶ谷の駅から神田川沿いに7、8分歩くと、ポンポコ大学の高い塔を見上げる三叉路にぶつかる。
正しくは変則の十字路であって三叉路とはいいがたいかも知れないが。
そこで川から外れて細い登りに身を預けると靖国神社のちょうど裏を通る格好になる。

いくつかの、淑やかゲな学校や有名な消費者金融の社屋を見上げるその道は、
東西と概ね平行に走っており、日が昇り、また沈むときには、
その道の走り方と太陽の軌道のずれ具合によって石垣の細かな凹凸が絶妙な角度で浅い影を映し出し、
なんとも些細な美しさを醸し出す。

私は、朝に通勤で通る際にその影の細やかなことを見つけては喜び、
いつか写真に収めたいと思うくらいではあったのだが、
日暮れの影お目にかかったことがなかった。
そんな丁度よい時間に職場を出ることなどないものだから。

だからこの日は夕暮れ時のその影を見ようと思いたち、
シクシク痛む膝をおして、帰りも秋葉原から四谷まで歩くことに決めたのだった。

結果的にはその通りに差し掛かる頃には日が既に傾き過ぎてしまっており
思い描いたような美しい影には出会えなかったのだが、
それとは違う、もっと大きくて、貴重な感覚に見舞われたのだった。

大学の、あれは何十階建てなのだろうか、塔のようなともかく高いキャンパスの向こうへと日が下っていく。
道は駅へ、神田川の流れる方へ下っていく。

朝には、東から上ってくる日を正面から受けて西から東へ歩き、
いまは丁度沈んでいく日を追いかけるように坂を東から西へと下っていく格好なのだが、
そのふたつの様を頭の中で思い描いていると……
太陽ではなく地球が……自分の方が動いている感覚が明らかに意識された。

太陽が逃げるのではなく、回転する球体の上に立った自分の方から、明らかに遠ざかっている。

Dsc01691


いま沈んでいくように見えている太陽は空に静止しており、
自分の立つ地面が、地球が、球体が、西から東へすごい速度で回転し、
足を止めていても、自分が太陽からぐんぐん遠ざかっていく様子が
ハッキリと見えたような気がしたのだった。

その回転による移動の速度によって風を感じないのが不思議なくらいまざまざとした、
客観的な移動の感覚と、太陽が遠のいていく……取り残されて行く、寂しさがあった。
なんとも不可思議な体験であった。

別段マボロシや白昼夢を見たワケでも何でもなく、
カメラを構えて構図を取りながら、
逆に坂を上ってくる人とすれ違い、後ろから下ってくる人をやり過ごし、
ごくごく当たり前なことをしていたのだけれども。

以前酒に酔った夜の帰り道に、
いま自分の立っている場所がただ大気の層に隔てられたそのどん底にいるだけで
確かに宇宙の片隅であり、
その日夜空に瞬いてた星と同じ立場なのであると、
妙にはっきりと迫って見えた見慣れたはずのオリオン座に飲み込まれそうに感じたことがあったが、
それと似ていた。
今日はしらふだったが……。


中村先生の描く花の妖精たちに惑わされ、
知らず知らずのうちにおかしな門でもくぐったのかもしれない。
いっそのこと、もうそちら側から出られないくらいに引きずり込んでくれればよかったのに。


久々に、昼間の秋葉原なんかいったからくたびれちゃったよ。
ブラブラ歩いていたら偶然PLUMショップに行き当たったので入ってみたりしたけども
特に何も買わない、そんな休日であった。

ポテチン。

 
 

| | コメント (0)

2017年4月18日 (火)

■2017年1月期アニメ感想・あたた大紹介!~けものもいるし、亜人も、ドラゴンも、ドMも天使も悪魔もいる、無論のけものもいる~ -更新第1119回-

駅からシゴトバまでのイチョウ並木、
先週はまだボウズだったような気がしたが、今朝気付いてみると
枝にわさわさと青葉が茂っていた。

おのれ春め。

とまあそんな感じで、
4月に入ってもう2週間も経っちゃったけど、
2017年1月期は何かと良いアニメが多く、また激動でもあったので、
感想を書き残しておこうかなと思いますっていうか
書いてたのを載せられずに来たので載せないのも癪だから載せます。



■『けものフレンズ』

昨年の『おそ松さん』に続き、
アニメ業界関係者から「1月期には鬼が棲む」とでも言われかねないほどのダーク過ぎたダークホース。
誰が読めるんだ、こんなモンがいきなり超級のメガヒットになるなんて。

いやオイサンも、柄にもなくリアルタイムで超楽しんでしまったんですけれども。
「流行りものが、流行ってるまさにその時にその感覚を共有できる」って
オイサンにはなかなかレアなケースで、
大波がくる直前の段階で個人的には盛り上がれていたので、
あとはもううしろから来た波に一番高いところまで押し上げてもらってしまった感じで
3ヶ月が過ぎ去った。

ただオイサンの場合、大きく盛り上がれたのは3、4話までで、
巷で言われていたような後半の大盛り上がりの頃には冷静だった。
11話のヒキ、12話のラストバトルを神だなんだと祀り上げるようなテンションには、さすがになれなかった。
4話の「絶滅」発言、6話の宣言に至る辺りでは、もうお話が「分かり易く」なってしまっていたので
落ち着いて見られていたと思う。
周りの人たちが大変楽しそうに見ていたので、そのオコボレには預かることが出来て楽しかった。

伏線の張り方だとか、細部へのこだわりだとかについてはやはり目を瞠るものがあったと思う。
けれども、謎やヒントの散りばめ方や視聴者の突き放し方、ラストバトルへの入りの演出あたりは、
探せばワリといくらでも他でやってる作品が見つかるレベルなのではないだろうか?
その辺りについては、みんな過剰に有難がっているなあ、というか、
他の作品も同じような情熱で見てあげれば、きっと同じくらい面白く見られるぞ? と。

分からなかったのは、そうして盛り上がってからの視聴者のハートを、
最後の最後まで、否、終わっても尚醒めさせず、
引っ張り続けることが出来たのはなぜなのか、そこにどんな仕込があったのか?
ということだ。
「IQが溶ける」と言われていた序盤のやさしくゆるすぎる展開と、
後半徐々に明らかになる謎の、視聴者に解かせる導き方・ヒントの散りばめ方の
ギャップが良かったんだろうか、と思っているが……。

結局「誰もが好意的に」作品を読み解いた結果、
非難のしようがない作品になってしまったわけだけど、
それはどちらかというと作り手の功績というよりは、
受け手の心のありようをの問題だったと思っている。

  マそれだってつまるところ、
  「受け手の心をそっちへ向けた」作り手の功績であることには変わりないのだけど。
  何がそうさせたのか……それがポイントだと思う。
  個人的には1話~3話までの、お話がどこへ向いているかわからない、
  「俺はいま、一体何を見せられているんだ」っていう感覚も異様さが忘れられない。
  まさにその、コツメカワウソちゃんが、
  すべりだいをしては「たーのしーい!」、
  小石遊びをしては「わーい!」
  それをみたサーバルちゃんが「やらせてやらせて!」
  っていう、まさにIQを溶かしていた頃の「分からなさ」が一番の魅力であった……。
  ラストも、バトルで盛り上がってはいたけれど、
  バトルより、かばんちゃんの知恵と、フレンズたちの特性で乗り越えるような仕掛けであったら
  より良かったなあ、と個人的には思うものである。

少人数・低予算ということを考えれば良いクオリティだと思うけれども、
それだって受け手にしてみればシッタコッチャナイ話で、
見ていて「行き届いてないなあ」と思うところは、画的・演出的に多々あった。
それ以上に行き届いている部分が多いから、人の心に響きもしたに違いないけれど。
つくづく「心のアニメ」だったなあと思う。

尚、オイサンの好きなのはサーバルちゃんとライオン、コツメカワウソちゃんです。
トキもアルパカも大好きだけどね。ハシビロちゃんも良いなあ(全部か)。 

  絵     :あたた
  音     :あたたたた
  話     :あたたた
 見せ方    :あたたたた
 たーのしーい!:あたたたた



■『亜人ちゃんは語りたい』

今期のダークホース……というほどでもないか?
「人気原作のアニメ化」という意味では妥当な位置なのかもしれないけど、
にしても、原作の持ち味を大変上手に料理した上で、独自の雰囲気を纏うことに成功しているのではなかろうか……
って、原作読んでないからわかんないんだけど、アニメでないと出せない、
具体的な時間の流し方、時間を利用した場面のコントロールの仕方が妙なる作品であったと感じている。
マンガだと、どうしてもコマで時間が途切れてしまうところをキチンとつなげて表現出来てた、
と思う。
だからちょっと、原作が気になっている。どこまで原作由来の成分だったのか。

この作品はいわゆる「日常系」ではないし(「フツーの人」の物語ではないので)、
バトルやスポーツや恋愛でもない、
日常の中に潜んでいるちょっとした「段差」を丁寧に取り扱うことがテーマの作品で、
なかなかデリケートな位置にあったにもかかわらず、
それを大げさに深刻にしないで、意識を向けさせつつも、しかりつけない、説教臭くしない、という
難しいはずのことをシレッとやっていた。
前半というか、冒頭の数話は見始めるまですごくエネルギーが要った。

  緊張感がすごくて、見終わると「今回も爆弾は爆発しなかった」とホッとする、ということが続いた。
  「この作品では爆弾は爆発しないんだ」と理解するまで時間がかかった。

これは大変な手腕だったなと思うのだが、
カントクなり、原作者なり、主要スタッフの「人柄」の為し得た技だったのではなかろうか。
危ない出っぱりを、色の違う土で均す、みたいなことをやってる作品だったと思う。

「オッサン(高橋先生)が邪魔だ」なんていう感想をどこかでちらっと見たが、
よろしいキミは『きんいろモザイク』でも見ていなさい。
JK友情かんさつようちえんがお似合いだ(暴言)。
まあ『ひだまりスケッチ』も似たようなモンだけどな。

  絵    :あたたた
  音    :あたたた
  話    :あたたたた
 見せ方   :あたたたた
 乳首アタック:あたたたた

 
 
■『小林さんちのメイドラゴン』

『ちゃんデミ』が「日常系の顔をした非日常」だったのに対比するように、
こちらは「非日常の顔をした日常系」。
異文化・異種間といいつつも、結局その辺のヤバいところは全部、
相手(ドラゴン側)がこちら側に合わせるか、とりこまれるか、
不思議な力で全部なかったことに都合よく繋ぎ合わせてくれるという、
おきらくゴクラクアニメーションだった。

  マこっちも原作読んでないので、どこまでが原作由来かワカラヌが。

けど、それがダメってんじゃなくて、こっちはこっちでそれが持ち味。
ヘンな人たちが集まるホームドラマってだけだ。
小林さんが人類を代表して、どセンターで踏ん張ってるから成り立ってるけど、
小林さんを差っ引いたらただの『ガヴリール』になるというバランス。

ホームが失われた現代のホームドラマを、非常にすっきりと、リアルに描き出してくれたんだと思う。
ホームを構成するために、異文化・異種間を引っ張ってきて繋ぎ合わせる、という

昔のホームは「異」であることが前提ではなく、
誰もが「同」だと思っている(思い込み、信じ込んでいる)ところに実は「異」がどっさり潜んでいることに
ドラマがあったのだけれど、今はそのホームがそもそも形成されない。
ホームのない、ロンリーでアローンな小林さんは、
人が皆「異」であることを前提認識として持っている(そして諦めている)ところから始まって、
「異」が前提のホームを構成するところから始まる、まさしく「異」色のホームドラマ、だったのだけど。

しかしまあ、あんまりうまく機能はしてなかった様には思いますねw
強いていうなら舞台装置として機能していたのは、
カンナちゃんと、ファフニールさんがかろうじて緊張感を保持していたくらいで、
トール、ルコアさん、あともう一人(名前忘れた)はすっかりなあなあで、だった。
トールはヒロインだからいい(まだ何にでもなれる)けど、
ルコアさんはぷるんぷるん要員でしかなかったし、最後発の眼鏡は脂肪と糖にやられただけだった。
何しに出てきたんだw

カンナちゃんはドラゴンとしてよりも、ただ「子ども」として小林さんには異質だったし、
ファフくんは馴染みながらも人間への憎悪は維持してた
(憎悪を執行しないでいるためにどう付き合うか、は学んでしまっていたけど)。

皆それぞれの違和感を与えられながらこちらの世界にやってきていた筈なのに、
結局それを表明しきれず、大抵はこちらの文明に取り込まれていって終わってしまったのが
『ちゃんデミ』との違いだった。

と言いつつ、ルコアさんが好きだったんですけど。声が良いよね。
初恋の人(初代大人ミンキーモモ)に似ている気がする。
思えば、今自分が好きな声質の人って、みんなそっちに似ている気がするな。
野中藍さんとか、おみんちゅとか、高い低いじゃなくて、声の表面にケバがなくてぬるっとしている。

しかし『ガヴリール・ドロップアウト』を見てても思ったんだけど、
人間界のダメ娯楽って、そんなに素晴らしいもの、
外の世界から見ても堕落パワーに満ち満ちたものなんだろうか?
人間、というか日本人クリエイターは、娯楽文化のダメパワーを過大評価し過ぎている気がしないでもない。 

  絵       :あたたた
  音       :あたた
  話       :あたた
 見せ方      :あたたた
 ボクっ子ルコアさん:あたたたた

 
 
■『この素晴らしい世界に祝福を2!』

世間は『けものフレンズ』の最終話が神回だと評判で号泣必至、みたいな評価でしたが
オイサン的にはそこまでは響かず、寧ろ泣いてしまったのはこっちだった。

2期は1期に比べてパワーダウンはしていた、と思う。落ち着いた、というか。
荒っぽさ、イキオイ「だけ」の感じ、そういうガッビガビの岩肌全開の崖っぷちっぽさが薄れ、
ところどころ危ないところの角がとられていた。
それを補填する材料として、画が素晴らしかった。
画をここまで壊してメリハリをつけるアニメは初めて見たと思う。

あの顔芸みたいな笑いのとり方、決まったかたちに可愛く画を崩すのではなく、
本当に不定形に絵を溶かしていくやり方は、
作画監督なのか原画マンなのかしらないけど、その辺の上のレベルで絵を見る人たちの手が
ものすごくかかるのではないだろうか。素晴らしかったです。

そして最終回。
いやー……まさか。
まさか、あそこでゴッドブロー、ゴッドレクイエムのメドローアが飛び出すとは思わなかった……
泣いちゃったもの。
アクシズ教教義を背負っての肉弾女神は最高だったし、
なにより、その時点で既にホネになってる主人公!
いねえよw 最終決戦でホネになってるヤツw
ラストバトルの合間合間にも、チョイチョイ白骨化した主人公を抜いていく絶妙のカット芸。
ギャグアニメってすごい、「笑かす」ってすごい!! と心底感動した。
良い勉強をさせてもらいました。

というワケで、
ストーリー前半の伏線がラストバトルで活きまくる(ゴッドブロー)し、
メンバー全員が持ち味を生かして最後の敵に立ち向かうし、
主人公が身を呈して仲間を守るので、『このすば2!』は実質『けものフレンズ』で良いと思う。 

  絵  :あたたた
  音  :あたた
  話  :あたた
 見せ方 :あたたた
 教 義 :あたたたた

 
 
■『幼女戦記』

なんだかんだで最後まで見てしまった。
途中あからさまな総集編が入って力尽きるかと思ったけど、
画のクオリティはほぼ殺さず、最後まで走り切ったのは見事だと思った。
マそもそも力尽きかけるなよ、という話だけど。
総集編前後でOPが全くかからなかったのは、今思えば
総集編で使ってしまった時間をどうにかカバーするための苦肉の策だったのだろうが、
リカバリー案を打ち立て実行した人がすごく有能だったんじゃないだろうか。

アニメ本編とは全然関係ない話してるな。もどそう。

画も音もお話も、たいへん良く出来た作品だったと思います。
「よくまとまっている」だけに突出した面白さは感じなかったけど、
それでもストレスなく、次へ次へと毎週見るのが苦にならない楽しさだった。

「アニメなり」の、結論が、12話見て来た視聴者に対して提示されなかったことは残念だった。
あれだけの差し迫ったキャラクターがギッチギチの論を展開するにも関わらず、
カタルシスが得られないのは、片手落ちな気がする。
ストーリー的には、最後は存在Xが横槍ブッこんでちゃぶ台ひっくり返してくるものだとばかり思っていたけど
そうはならず、
マそんな「品のない」ことをしないが故に神なのだ、とは思うけど、
もう少しなんかこう、あっても良かったなと思う。

悠木碧嬢は……大丈夫だろうか、こんなぶっ壊れたキャラばかり演じていて。
たまにはすごく普通なお母さん役とか、やらせてあげてはどうだろう?
マでも、デグレチャフさんは基本「いい人」だよね。
彼女が良い人だったから、最後まで見られたんだと思う。
楽しませていただきました。 

  絵     :あたたたた
  音     :あたたた
  話     :あたた
 見せ方    :あたたた
 さあ牙を研げ!:あたたたた

 
 
■『ガヴリール・ドロップアウト』

これも、蓋を開けてみれば最後まで見てしまった案件。
1話目を見た時点での期待値は、最終的には越えて行った。
途中で切るだろうな、と思っていたので。

転換点は、ガヴのダメっぷりが当たり前になってしまって後ろに引っこみ、
サブの3人のキャラクターが主軸になって話が回り始めた辺り。
ガヴは「ダメではあるけど、外に出てくればある程度常識人」で、
あとの3人はダメでない分(サターニャさんはダメだけど)、
日常にまで特異な部分を持ち出してきてしまうので、ガヴが突っ込みに回るようになったところで、
急に見応えが出てきた。
ナルホドナー。

大きなストーリーも小さなエピソードもどこかで見たようなものばかりだったけど……
まあ、キャラクターと演出でもったような感じです。
手堅く、こぢんまりと、丁寧にまとまっていたので、来年には忘れている可能性が高い。
フックはないではなかった(主にラフィ)けども、ちょっと小さかったかな……。
EDが素敵だった。 

  絵     :あたた
  音     :あたた
  話     :あた
 見せ方    :あたた
 ヴィーネたそ~:あたたたた

 
 
■『セイレン』

ラストエピソードの4話で……とりあえずなんとかなった……かな? というくらい。
開始時の感想でああは書いたけど、終わってみるとやっぱり
御大は、本当は何がやりたかったのだろう、どういう姿を理想に思い描いていたんだろう?
という疑念がぬぐえない。

『アマガミ』世界からほつれて残った糸を使って、何かちょっとだけ、
その後の輝日東を描きたかった……だけなのだろうか?
それによって輝日東という町がより深く描かれて、生き物として動き出すのだったら意味があると思うけど、
そんな感じでもなかった。

オイサンはちゃんと追いかけてはいないが、
公式サイトの方では主人公やヒロインの行動を時系列に埋めていくタイムテーブルみたいなものが
用意されていたらしい。
なんかそれってもしかして、『アマガミ』はでいうところの行動マップを、
今度は時間軸を自由にエピソードを拾っていく、
みたいなゲームの仕掛けとして考えていた物があったのではないか、とか、
勘ぐってしまうのう。

  絵描きからディレクター、プロデューサーみたいなところへ軸足を移して行った御大は、
  何をやりたかったんだろうか。
  マ作品の世界はどこまでいっても作者の所有物だから、
  やりたいことを描き出すためにトコトンまで使い尽くせばよいと思うけれども。

ところで、いまフッと思いついたんだけど、もしかしてこの監督は、
16:9の画面向けに20数分のアニメを作ることに慣れていない
だけなのかもしれない。

だって、時間(演出)的にも空間(動画)的にも、色んな意味でスカスカなんだもの……。
色んなことが把握・計算出来てないように、やっぱり見えてしまいますですよ。
統一OPの『キミの花』と、ラストエピソード今日子編のエンディングがとても自分好みだったから、
という理由で最後まで見続けることが出来たけど。

単品のアニメーションとしては、
広く人々の心に深く残るものではなかったのではないかなあ、と思いました。
どういうレベルで勝負しようとしていたのか、せめてそこがわかると良かった。
ヒットしなくても、手間暇薄めに作って、見合った回収が出来ればいい、というところなのか。
魂込めたモノだったのか。
やっぱりよく分からない。 

  絵       :あた
  音       :あたたた
  話       :あた
 見せ方      :あたた
 OPの謎ロケーション:あたたたた

 
 
■オマケ

 ▼『弱虫ペダル』

もうほぼ真面目には見てない。
1期というか、一年生編は暑苦しくてもまだ見ていられたが、
2年生編に入ってから、ドラマがもう、暑苦しいというかむさくるしいというか、
押しつけがましく自己陶酔も甚だしくて

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
 思い悩んで頑張ってるオレそして仲間を支え支えられ支え合ってるオレ
 やっべえちょうイケてるああああああああああああああ
 おおおおおおおおのだあああああああああああああああああああ!!!!!!!」


っていうノリが、
……原作の方もそうだと思いながら読んでるけど……
アニメになってしまうと、そういうオーダーがつけられてるのか、
もう見ていられるレベルじゃない。誰かちょっと、ここらで止めてやれよ。
いい加減気持ち悪いよ。


 ▼『うらら迷路帖』

これも最終的には殆ど満てなかったんだけど。
毎回アバンで入るお定まりの語りパートのテキストが、
センス無シ無シでうわあってなっていた。
ジャングルくろベエ呼んでこい。こいつらに本場のウララを見せてやれ。
あとOPで、占いのことを謳おうとしているのに、

 ♪ 右へ行こうか左に行こうか? 仲間とだったらどっちでも大正解!

みたいなこと(うろおぼえ)を歌ってるのちょうウケル。
ほな占い要らんやんけ。



マそんな感じでヒトツ。
オイサンでした。

春アニメも楽しみね。


 

| | コメント (0)

2017年4月16日 (日)

■渡りビトの遠いなわばり~SS『けものフレンズ』より~ -更新第1118回-

はいどうも、オイサンです。

……うわー。
1か月近くも更新してなかったか……心肺停止! 心配停止ですよ奥さん!
A・E・D!A・E・D!
ふざけてる場合じゃないですね。
大変申し訳ありませんでした。

特段理由があるワケではないのですけれども……
かなり真面目にSSを書いていた、というのもありますし、
日記的なことは、ないワケではないですが。

日記的なことは、次に載せます。一応書けているので。
それを載せようと思っているうちに大きめのことに手を付けてしまって、
この体たらくです。申し訳ない。

デ載せます、今をときめく超人気アニメ、『けものフレンズ』のSS。

  ■渡りビトの遠いなわばり -カクヨム-
  https://kakuyomu.jp/works/1177354054882973959


どうです、らしくないでしょう? いま大流行のアニメですよ?
ひよったもんですよ、このオッサンも。
まあ、人気取りに走ったワケではないですけども。
珍しく、流行りものがリアルタイムに流行ってるウチに、高いテンションを共有して
楽しむことが出来たし、
面白そうな企画も立ち上がっていたものだから、ちょっとその気になってみたと、
それだけのお話です。

今のウチはまだここにそのまま載せることは出来ないので、
KADOKAWAさんのカクヨムのページから読んでくだせえ。
タイトルからチョイ下の、「1話目から読む」から読めるみたいです。1話目しかねえよ。

しかしまあー……しんどいね! 字数制限!
3000字て。少ないよ。
当初考えてた構成で、一回アタマからお尻まで書いてみたところ、
楽に7000字くらいいってしまって、一番だいじなところだけでも4000字くらいあったので、
こらアカンと思い立ち、超大胆に再構成して、今の↑カタチに押し込めた。
だからこう……全然分からないところとか、あるかもしれないな……。

当初の構成からでしか、オイサン自身は気付いてないけど実は読み取れないところとか。
あるかもしれません。
そーゆーのが見っかったらスミマセン。
それでも最初は3000字台後半の分量があったのを、削って削って、
ゆずってゆずってこの姿になったのですけれども、
まあ……勉強にはなりました。
エエ。
大変に勉強になった。
普段どれだけ雑に書いているか、無意識にただ余計な情報を載せてしまっているか、
意識するいい機会にはなった。

そりゃね、リズムを拵えるためとか、
敢えて意識を遠回りさせるためとか、
そういう冗長さや重複というのは意識してあったりするけれども、
それを言い訳にして要らないところが吟味されずに残っていたり、
気付かずにかっこ悪い二重の意味が残っていたりして、
マア、
大変ハズカシイな、と思うところが、削る過程で多々見つかった。

それと同時に、ここは残したいな、という自ら持ち味と信じる部分が残せなかったりもしたので、
その辺は、モ少しほとぼりの冷める頃に、完全版を用意しておいて
またこちらにも掲載したいなー、なんて、虫のいいことを考えております。

ご感想なんかもね、ございましたら、是非あっちのページでもいいですし、
こっちのコメントでも構わないので、またいただければ
大変ありがたく存じますですよ。

すいませんね、ホントご無沙汰になってしまって。
こちらの方もしっかり書いていきますので、
2017年度も引き続き、ご愛顧のほどをよろしくお願いしたいフレンズのオイサンでございますよ。

ホント、もうちょっと気を抜くとすぐ死んじゃうような世の中ですから。
皆さんもどうぞお気を付けて。

ほどほどに頑張ってまいりましょう。
オイサンでした。

| | コメント (4)

2017年3月19日 (日)

■花よりも花の如く、光陰よりも矢の如く。そして…… -更新第1117回-

オシゴト帰りに新宿エキナカの本屋さんに寄ったら、
『花よりも花の如く』の最新刊が出ていた。
16巻。


  

  こっちで試し読みもできるっぽい。
  http://www.s-book.net/plsql/slib_detail?isbn=9784592210061


『花よりも花の如く』は、現代に生きる若き能楽師・榊原憲人が、
能の世界を通じて、人の世の悲喜こもごもを味わいながら、
能楽師として、人間の男として、なんとなくいい塩梅になっていく物語です。

  「成長」とか言わないぞ。そんな安っぽいモンじゃないんだ。

デまあ話の中身はいいんですが(いいのか)、
その新刊の帯に「成田美名子先生、画業40周年!」とアオられている。
1977年デビューというから……
なんと、オイサンの生まれる前から原稿用紙と格闘していらっしゃる計算になります!

  ……すみません、いまシレッとウソを書きました。
  オイサン生誕の2年後からですね。オイサン暦2年からですね。
  O.C(オイサン・センチュリー)2年。
  なんでウソついたんだ!(ドン!!

しかし40周年とはなかなかスゴイいキャリアですが、
お生まれは1960年と言いますから、17歳からマンガ描いてんのか……。スゴイな。
花とゆめコミックスの単行本なんで、ガッチガチの少女マンガでありまして、
作風も、昨今の、少年・少女の垣根がかなり取っ払われた感じになる以前からのものでありますが、
まオイサンは小学校低学年の頃から『パタリロ!』なんていう
当時の少女マンガの中でもかなりアグレッシブなものを読んでおりましたし、
それ以降もナンヤカンヤ触れて負ったのでそこらへんに抵抗感はない。

  『ぼくの地球を守って』とか『動物のお医者さん』とか『ここはグリーン・ウッド』とか、
  まメジャーどころばかりですが、ガッツリと読んできました。

    


成田作品に触れたのは、大学1年か2年の頃、当時活動してた演劇部の女子のお友だちから、
「これ面白いよ!」と借りた『CIPHER(サイファ)』が最初だった。

  『CIPHER(サイファ)』は、N.Yに暮らす双子のアクター、
  ジェイク・ラングとロイ・ラング(=サイファ)がある確執から袂を分かって暮らすようになり、
  それまで一心同体のように生きてきた二人がそれぞれの道を歩むようになっていく、
  というお話。今読んでも最高に面白いです。


  

オイサンも当時はクソみたいな男子大学生らしく、
そのマンガを貸してくれたコを憎からず想っておったりしたものですから喜んで読んだのですが、
コレがまあなんというか、非常に不思議な面白さでした。
先が気になって仕方がない!!
……という類の、面白さではない。
引き込まれるとか、そういうんではないけれども、
……なんかこう、人物が常に自分のそばに寄り添っているような、
向こうの世界にいるままこちらにもいる、みたいな面白さでした。
フィクションならではの刺激的な面白さよりも、
「ちょっと上質な現実」とでも呼ぶべき、
あらゆる感情を丁寧に丁寧にブラッシングしてあるような肌触りの良さが際立つ感覚がある。

その後も、『ALEXANDRITE』(アレクサンドライト・『CIPHER』のスピンオフ的な続編)や、
完全新作の『NATURAL』も成田先生の作品として読み続けてきたのだけれども、
やはりどれも強い引きや動機を生む作品ではなかったので、
なぜ連綿と読み続けてきたのか、途中でやめなかったのか? は、
今にして思えば少し不思議ではある。

しっとりとじんわりと、とても面白いのにストレスがなく、
読めば確実に、何か一つの真実に触れることが出来るという確信が、
どこかにあったのだろう。
思えばそれは、ゆうきまさみ先生の作品と似た感触である。

オイサンが成田先生作品に触れたのが恐らく大学1年か2年、18、9歳の頃で、
1995年前後のはずだから、約22年。
こんなオイサンでも、先生の画業のうち半分にはお付き合いしていることになる。


■ずっと俺のターン

にしても40年、22年か。
オイサンも今年は42になり、両親はともに70を超える。
マそうして考えると……あまり口にしたくはないコトだが、
両親もあと、10年? 一緒にいられるかどうか。
おられれば御の字、
生きているのに特に具体的な不安はないけれども、
たとえ明日突然そうでなくなったとしても、神様に向かって正面切って文句がつけられるような年齢ではなくなってきた。
神様にも「イヤお前そりゃそろそろ年齢だよ」って言われても……グウの音も出ぬ。
そのくらいの年齢かなあ、とボンヤリ考えてはいる。
何もしてはいないけど。

そーなってくると不思議なモンで、
次に自分の番が回ってくるのも案外あっという間だな、なんかをやり切るほどの時間はないな、
……と、思ってしまう。

ここ最近を振り返ってみると、10年なんてあっという間だったなあと思うワケで、
……マその「10年のはやさ」が本当かどうかはあとで考えるとして、
真実だとするならば、
自分に過ぎる10年も、両親に過ぎる10年と同じようにふりかかってくる。
つまり。
オイサンもあっという間に50になる。
50になってしまえば、60もきっとすぐだろう。
そしたらもう、アレですよ。
いま自分が両親に見ているように、いつこの世を退場してもおかしくない年齢までもすぐだ。
そうか、自分もすぐに死んじゃうんだな、と、春の日の、うららかな陽気の散歩の中で思ってしまった。

しかしここでさっきの問題、
「10年は、本当にそんなに早く過ぎ去ったのか?」について考え直してみると、
丁寧に振り返れば……案外、そうでもない。

振り返り方の違いで、随分と印象が違うことが分かってきた。
ある特定の点のことだけを振り返れば確かに昨日のことのようだから、
すっごくあっという間だったように感じる。

『アマガミ』が8年前! と思えば、うそっ! と思うほど早いけど、
『アマガミ』以前には知らなかった人たちとのことや、
『アマガミ』から今まで、どれだけたくさんの場所へ行き、どれだけ自分が変化してきたかを思うと、
そこにはやはり、長い時間、細やかな刻みが存在していたことが感じて取れる。
たくさんのことがあった。
たくさんのことをしてきた。
ブログを始めてからも、まだ11年しか経っていないことを思えば、
10年というのは、やはり案外長かった。
これから先の10年も、きっと色んなことが出来るだろうし、いろんな場所へ行けるだろう。
色んなものも、書けるに違いない。
まあ、自分が頑張らないといけないけど。

  そーいや、忘れてたけど、『アマガミ』も3月19日が発売日だから
  ちょうど8年なのね。



■人の時間、内臓の時間。そして、光の時間

あとそれに、これから先の10年が、これまでの10年と同じ速度で流れるのか?
と言われたら、きっと違うのだろう。
正しくは、時間が均等に流れる……らしいけれども、
自分がその流れを拾う速度と精度が下がっていくから。


物理的に……というか、生理的・病理的に、感覚器の性能がガクンガクンと落ち始め、
同じようにインプットが出来るとは思えない。
そういう兆候は既に出始めている。
それはつまり、主観的には時間のクオリティが下がるのと大体同じだ。
鈍った時間が流れていく、と考えた方がいい。
衰える体の感覚器が、一つのことを拾うにも時間がかかるし、
拾ったものの精度も決して高くない。事実から遠く離れていることも起こりうる。
その隙間を、記憶や経験で埋めようとするから、主観とバイアスに染まった風でしか、
捉えたり考えたりできなくなるのだろう。

  はなから目や耳で物事を考えないで、
  数値で頭にしまい込んであればそんなこともないのだろうけど、
  なかなかそうはいかない……
  そう考えれば案外、目や耳が不自由な人の方が、
  若い時と年を取ったときの衰え方の差が小さかったりするのかもしれない。
  どーなんだろ? イヤ、いま適当に思いついただけだけど。

マその分、年を取るとコレまではまともに見えなかったものも見え始めるから、
これからの時間がただのレッサーバージョンかと言われればそんなこともないけど。
若い頃に見えていたものが見えなくもなるので
±ゼロだとは思うけどね。難しいものだね。

イヤハヤ、
若いうちは正しい・事実に近いインプットが行われるのにインプットされたものを正しく処理することとが出来なくて、
年をとれば今度はようやく正しく処理が出来るようになるのにインプットも回転も悪くなる。
人の言う「全盛期」とは、その両方のバランスが取れている本当に短い時期のことをいうのだろうな……
なんていうことも、ようやくわかるようになってきたワイよ。

自分としては、インプット装置が多少トンチキこいて、
アウトプットするものが公平・公正・均等でないイビツなものでも、
自分にとって、そしてそれを喜んでくれるごく少数の人たちにとって輝かしいものでさえあってくれたらば
十分満足なので、あんまり困らないけども。

ただ、やはり勢いはなくなるね。
エンジンが弱くなる。
人間、大部分はかなり下っ腹で動いてるな、と思わされる。
内臓は随分モノを考えているなあと実感するし、内臓の衰えは実感する。。

アインシュタインさんの考えた相対性理論によれば、
時間の流れの速さは絶対の一定ではなく、
唯一絶対に一定であるのは、光の速度だけ、ということのようである。
すべての基準はそこにある。
時間が流れていることを前提に生きてる私たちからすると分かりにくいと思うが、
つまりその考えに則るなら、

 「光は1秒間に地球を7.5周できる」

のではなく、

 「光が地球を7.5周するのに(停止した状態からみて)かかる時間を1秒とする」

と表現するのが正しい、ということのようだ。
時間の流れているのが前提の世界に光が走っているのではなく、
光が走っていて、かつそれよりも移動が遅い、あるいは静止している連中がいるから、
相対的に時間というものは発生する、という考え方……というか、世界を正しく理解すると、
どうやらそうなるらしい。
だから、光そのものが感じている時間経過はゼロになり、
それから遅れるほどに時間というのは流れていく、ということのようだ。
つまり、じっとしているモノより、
走ったり飛んだり、早く動いているモノの方に時間の経過はより緩やかにもたらされる。

なのでもしかすると、全身の細胞を光速で振動させることが出来れば超長生きできる……
のかなあ? と、バカなオイサンは思っている。

  イヤ、ちょっとコレ、考え方が正しいかは分からんよw?
  文系にも分かるように書かれた本を読んだ限りそんな感じっぽい、と思っただけだ。

勿論、基準が光速だけに、多少早く動いたところで計上される時差なんモンは
所詮誤差にしか過ぎないんだけれど、
それでも、
それでもだ、
誤差にしたって差は差であって、
それによって1秒の何千何万、何百万何千万、何億分の一でも、
自分が時間のくびきから自由になれる。
そう思うと……。
別に長生きをしたいワケではないのだけれど、
「いま流れる時間を少しでも緩やかにしたい」
と、思わないではない。
いまを緩やかに生きたいと願うことと、長生きをしたいと思うことは、決してイコールではないと、
オイサンは思う。

花よりも花の如く、光陰よりも矢の如く、
そして、ゆび先よ。願わくば、心臓よりも心臓の如くあって欲しいと切に願う。
文字を書くにせよ、シャッターを落とすにせよだ。



■Closing

話が、冒頭から随分違ってきたので引き戻そう。

成田先生の作品は、昔から、老人でも若者でも親しめるテーマを扱っていたように思う。
『アレクサンドライト』が若干テーマが若くてリキリキした生命感・躍動感にあふれ、
『NATURAL』も、テーマは普遍的だけど表現の仕方・舞台と人々がヤングで若い人向けの傾向はあるけれど、
どれも、内臓の力が多少落ちても無理なく楽しめる作品群であるように思う。

いまの自分には、過去を基準にした時間の尺度しかないなあと感じるのだ。
昔に比べてどうだこうだ、
昔に比べて何が得られて何が失われる……と。
それはきっと、結婚して子どもがいたりしないので、
未来に対して前向きに何かを測れないから、なのだろう。
「未来、如何様にあれかし」と願う、抽象的な目測が出来ないでいる。
過去に比べて何かが失われた時間に希望を見いだせない。
「(何かが失われはするけれども)こんな輝かしさが得られているであろう、
 得られているに違いない未来の時間のために、アレをしよう、コレをしよう」
と考えられていない。

ひとりでいるということには、どうもそういう効果があるらしい。

そんな目線でいるから、自分の時間の残りの少なさ・流れる速さばかりが目に付くが、
丁寧に測り直してみれば実際はどうやらそれほど少ないわけでも無いようだし、
インプットも、その処理の仕方も、まだまだ色々やりようがあるのだなということが、
なんだか確認できたように思う。
成田作品には、やはり普遍的な何かがある。

大学時代、自分は結局演劇部をやめてしまって、
『CIPHER』を貸してくれた女の子ともすっかり疎遠になってしまうわけだけれども、
そうした大切な時間がブツ切れにちぎれた後にも、
成田美名子作品というなかなかに深い足跡だけはしっかりと残ってしまった。

  演劇部は、なんでやめちゃったんだっけ……? あまり覚えてないな。
  キッカケになったような出来事は確かにあるんだけど、
  それも最後には大きな影響になるようなモノではなかったし、
  どうしてあそこまで凹んでやめるに至ったのか、当時の心境や経緯はよく思い出せない。

……。

どーなんだろ、あれから20年が過ぎた今、
あの子はまだ、成田作品を――『花よりも花の如く』とか――
読んでいるだろうかなあ?

どう思います?(しるかそんなもん)

 
 

| | コメント (0)

2017年2月26日 (日)

■沢の踏み跡~SS・アニメ『ヤマノススメ』より~ -更新第1112回-


      ※2017年3月5日修正

 お漬け物屋のお婆さんは、桶から出したばかりのたくあん漬けを、いつもの通りに良い塩梅のサイズに切ってくれ、一度ナイロンの袋に入れて口を閉じ、それをさらに、しゃりしゃりと手触りの紙で丁寧にくるんでくれる。その包み紙には、「漬け物舗 さわ乃屋」とお婆さんの名からそのままとったという屋号が、落ち着いて品の良い薄藍の地に白抜きで刷られていた。
 包みをお釣りと一緒に受け取りながら、
「もうじき、お店を閉めるのよ」
と聞かされたとき、ここなちゃんはうまい言葉を返すことが出来なかった。
 この駅から少し外れたスーパーの小売店街にも昔はぎっしりとお店が入っていたが、いまでは空いた床が目立ってきた。家具売り場の売れ残りみたいなソファが置かれただけの休憩所や、フードコートの出張スペースとして無理に埋めている場所もある。スーパー全体の全面改装にともない、テナントの入れ替えをするのだそうだ。
 そうなることがなんとなく分かるような気もしたし、やめないでほしいと言えるわけもないから、そうなんですか、としかここなちゃんには言えなかったのである。

 残念だとか、寂しくなるとか、もっと気持ちはあったはずなのにと家で夕飯の支度に手を動かしながら考えて、ご飯のとき母にその話をしたら、
「そうなの? 残念ねえ」
とすんなり言われてしまった。自分には、まだそんな部分も足りないのだなあとおかしな感心をしつつかじった地味な色のたくあんは、少し水けを多く含んで、しんなりしているように感じた。


    *      *      *


 三日が経って、またお漬け物の残りが少なくなってきた。ここなちゃんは、先に家を出た母に
「お買い物、私が行こうか?」
と学校へ出る前に自分からメールをし、学校が終わればそそくさと、よく回る足を、スーパーへ向けた。

 お店はまだあった。改装がまだ先なのは知っていたから当たり前だったのだが、そのことにほっとして、いつもと同じたくあんと蕪を少し多めに、そして安心ついでに白菜の浅漬けと、なすときゅうりの糠漬けも足した。
「そんなに慌てなくても、お店を閉めるのはまだ先よ?」
 ころころ笑うお婆さんに言われ、ここなちゃんは初めて、自分が切羽詰まった顔をしていたらしいと気が付いた。と同時に、お婆さんのその言い方が、店の未来の確かさを物語っていることも、十分に理解できた。

「続けることも、まだ出来るんだけどねえ」
 夕刻のスーパーは買い物客で賑わっていたが、小売店街へ足を延ばす客の数は限られている。その客数に合わせたように、お婆さんはのんびりした手足の運びで、クリーム色の大きな糠桶から野菜を取り出しながら話した。
 スーパー側からテナントの入れ替えを考えていると聞かされて、いくらか考えたあとに自分から手を挙げた。体やこころにまだはっきりとした不安は感じてはいないから、何か明らかな理由とか、いま困ったことがあるのかと問われたらなんとも返しようがないと言う。

「ただねえ、色々と、色々なことを思うと、ここらが潮時かなと思ったの」
「色々」

 おうむ返しに呟いて、ここなちゃんはまた「そうなんですか」と、お婆さんの言葉の奥にしまい込まれたほぐし切れない出来事を、そのままの形で胸に収めた。
 桶から体を起こして一度からだを反らす、その腰は確かに少し曲がって見えるし、振る舞いも緩慢ではあるが、山でだって、それよりもっとゆったりしたお年よりを見かけることは珍しくない。だからここなちゃんには、お婆さんが店をたたむことが余計不思議な気がしたし、心配でもあった。

「そうだ。ここなちゃんはお得意様だし、糠床を持って帰る?」
「え? いいの?」
「もちろん。よかったらだけど。じゃあ、ちょっと待っていてね」
 自分でお漬け物を漬ける。試みも考えもしなかったことだが、山での遊びや保存食作りと通ずるものを感じて、深く考える前に返事が口を突いてしまっていた。
 やはり緩やかな足取りで店の奥へ戻っていくお婆さんを見送ると一人になった。小売店街の客足の少なさがしんと小さな肩にしみる。こうして話すうちにも、この店へはおろか、隣の花屋や和菓子屋へもひとりの客の影もない。「だから」なのだろうかと思ったとき、ここなちゃんの脳裏に一つ、よみがえることがあった。

 小学校の授業で、町の歴史を調べたことがある。スーパーができる以前のこの辺りは商店街とも呼べないような小さな店が軒を連ねる区域になっていた。そこに大型の店舗が建てられることになり、元あった商店のいくつかは店をたたんで、残る店は条件を優遇されてこの小売店街に入れることになったのだ。先生に連れられてお店の人の話を聞いたり、班に分かれて図書館で調べものをしたりしたのを、ここなちゃんは憶えていた。テナントとか、優遇とか、当時の自分たちにはわからない言葉ばかりでその意味するところまでは理解出来ずに終わってしまったが、いま改めて見渡すと、花屋も和菓子屋も、客がなくとも慌てる風でもない理由が少しはわかる……。

 奥から戻ったお婆さんの手には、みっちりと、いかにも重さの詰まった風合いの糠の袋が抱えられていた。
「お待たせさま。はい、重たいから気を付けてね」
「ありがとう」
 それを実際受け取ってみると凝縮の程は見た目よりもはるかにまさっていて、力の加減を誤り、前のめりにふらついてしまった。
「わわ」
「あらあら、気を付けてねえ。あのときに比べたら随分大きくなったけど、やっぱり女の子ね」
 お婆さんは笑い、ここなちゃんもばつの悪い笑みで応えながら、あのとき、と言われ――校外学習で、この店を訪れたときのことを心に呼び覚ましていた。


    *      *      *


「どうしてお漬け物屋さんになったの、ですか?」
という幼いここなちゃんの質問は、思い返せば、町の歴史を紐解くという目的から少し外れていたかもしれない。お婆さんもうまい答え方を見つけるまで時間をかけていたように思う。出てきた答えも要領を得ない、なんだか難しいものだった。
 お漬け物を拵えるのが、お婆さんの家の役割だった。周りの家からの評判も良くて、となりや、そのまたとなりの家の集まりからも請われることが多くなった。さらにその評判を聞きつけて、また……と繰り返していくうち、遠方からも求める人たちがやってくるようになったのである。

「それで、いつの間にかお漬け物屋さんになったのよ」

 ここなちゃんを含めた子どもたちは、ええと、とどう捉えて良いやら心で傾げた首を無理やり縦に振り、担任の先生だけが、困ったような顔をしてうんうん浅く頷いていたのをここなちゃんはなんとなく覚えている。漬け物屋という職能者への確かな成り方や心構えは話の中では脇役で、一つかみほどの選択と、当たり前のような責任感がぼんやりとあり、いわば時代の空気に押し出されるように、糠との暮らしが選ばれて残ったという話だった。お婆さんにしてもまだ口にしたくないいいきさつや、言い表し難い事情もあったに違いない。
 それよりも、お婆さんが話し終えた後のやり取りの方を、ここなちゃんはより鮮明に覚えていた。

「ごめんなさいね、あまり参考になることが言って上げられなくて。あなたは、お漬け物屋さんになりたいの?」
「ううん、ちがいます!」

 クラスの友だちが大笑いをし、お婆さんも笑い、先生がここなちゃんをたしなめて頭を下げていた光景、あのときはなぜ笑われてしまったのか分からなかったけれど、いま思い出すと、ここなちゃんは顔から火の出る思いがした。自分が何を言ったのか、手の中でぐっと重みを増した糠床が、肩と背中を引っ張って、まるで自分に手をついて謝れと要求しているようにさえ錯覚する。
 そうして頭が真っ白になってしまった幼いここなちゃんは、逃げ出すように次の質問をしてしまった。

「お、お婆さんは、ずっとお漬け物屋さんなのですか?」

 改めて考えるまでもなく、何を聞きたい問いだったのか、いま思い返すと尚のこと分からない。それまで漬け物屋だけを続けてきたかを問うたのか、或いは、この先もずっとなのかと?
 不可解な質問をどう受け止めたのか、それでもお婆さんは丁寧に、
「そうね、私が元気なうちはそうかしら。子どもも孫もいるけれど……。これは、私のお仕事だもの」
と、そっと、先のことをさりげなく括った。


    *      *      *


「あ、あのときは、本当に……」
 まったく、なんということだろう。あんな幼い日の、過ちとも呼べない素直さの招いた勇み足が、まさかこんなタイミングで再び火を噴くなんて思ってもみなかった。ここなちゃんは自分の無邪気さを呪って頭も下げられずもじもじしていたが、お婆さんはころころと愉快そうに笑って、いいのよ、あれは勿論冗談だもの、とやさしかった。
「だからあのとき、ふたつ目に答えたことも本当。誰かにあとをお願いしても、きっと困ってしまうでしょう?」
 これ以上ないくらいに似合う、袖口がゴムになっている割烹着の腰を一度ぐっと逸らせ、気持ちよさそうにいくつか息を吐いて、やがてまた背中を丸めた。
「残念って言ってくれるひとには申し訳ないけれど、あたしはもう十分」
 最後の言葉の本当の意味は、ここなちゃんにはやっぱりまだ難しい。けれどもそれも無理をして、ハイ、と飲み込み、伏し目がちに頷いた。
 お婆さんはその賢さも見透かして、最後にもう一つ、
「まだしばらくはお店にいるから、上手に漬からなかったら聞きにいらっしゃいね」
と、付け加えることを忘れなかった。


    *      *      *


 そのひと月後、ここなちゃんは山で道を間違えた。
 山が近場で、さほど高くもなかったのが逆に災いした。珍しく母が「職場の人から聞いてきた」と言った湧水を汲むついでのハイキングがてらで行程を組み、遅めの時間に出たものだから、中盤からあとに向かうことになる水場への道で時間を食ってしまうと、もうリカバリーが効かなくなってしまったのだった。そのおかげで、水汲みという目的を果たすのが時間的に精いっぱいになってしまい、山頂を踏むことが出来ずに終わってしまったのである。
 メインの登頂路から一度離れ、水場へ向けて沢の流れに行き当たったとき、踏み跡が残っていたからそちらだと思い込み、安易に沢に沿って登る道を選んだのが間違いだった。それは、以前は確かに水源へと続く旧道だったのだが、いまは落石によって封鎖されており、本当は沢を一旦渡った先から進むのが正解の道筋だったのである。

「印を立てておかないと、また誰か間違っちゃいますよね」

 ようやく沢の分岐まで帰ってきたここなちゃんは、丁寧に、今しがた自分が付けてしまった誤った踏み跡の旧道に横木の通せんぼをかけて呟くと時計に目をやった。往復で二時間近くを失って、ここからまた水を汲みに向かったのちに本来の登山道へ戻っていたのでは、山頂を臨むころには日が傾き始めるだろう。

「今日はもう、仕方ないかな」

 山では、どうしても一人ごちることが多くなる。意を決して、などと大げさな話でもない。今回は水汲みを優先して、山頂はまた来週にでも再挑戦すれば良い。なにせ、塩分を補給するためのお漬け物には事欠かない身分になったのだ。
 あの翌日から、早速、漬物舗・さわ乃屋謹製の糠床でトライし始めたここなちゃん最初のお漬け物の玉砕の仕方は、実に地味なものだった。とりあえずのお試しで、たくあんをひと月かけて漬けたのだが、お茶漬けの種にしてもまだしょっぱ過ぎる有り様の漬かり具合だったのである。その塩気は保存食としては優秀だが食卓での活躍の機会に乏しく、冷蔵庫の中でのんびり寝かされているうちに、今回の登山の機会が訪れたのだった。
 湧水の広場へ向かう道を、道誤りでくたびれた膝を持ち上げてざくざく進む。道は先ほどの旧道より格段に険しかった。ごつごつと岩だらけの沢を左手に見下ろすくらいの角度で登っていく。果たしてこれで本当に水源に辿り着くのか、このまま山頂へ行ってしまうのではないかと不安になるほどだったが、山の道は面白く、沢は小さな滝を何段か経て道の高さに追いついて来、やがて合流した。
 道の最後は、垂直の岩壁が頑として立ちふさがる行き止まりになっていた。手がかり、足がかりはあるから登れないこともないだろうが、普通の登山客があえて進むような代物ではない。その壁の、地面から二メートルほどの高さより上のところどころから水が湧き出し、なぜ形作られたのか分からない、受け皿のように突き出した岩に一旦溜まってからちょろちょろと細く落ちている。
 ここが沢の水源だ。きっとどこか、この山の上か、或いは離れた高山に注いだ雨や雪が押し積もり、逃げ場を失ってここから染み出ているのだろう。ここなちゃんは早速荷物を下ろして五百ミリの小さなボトル二本に水を受け、それが終わると自分もその傍らに腰を下ろした。拭ってもまた汗がこぼれてくるのでまた拭い、汲んだばかりのボトルの水に口を付けて、崖と木々に囲われた空を見ながら時間を計算した。そして膝の上に、山頂で広げるはずだった弁当を広げた。
 旧道では、徐々に心もとなくなる踏み跡に疑念を抱き始めた頃まんまと巨きな石に道を阻まれ、明らかにおかしいと気付いて引き返してきた。それでもまだ、道が道らしい形を残していたから辿ることが出来たのだ。きっと自分のように、定期的に迷い込む者があるのだろう。はじまりにあの道を踏んだ誰かは、やはり先にあるであろう、沢の水源を目指して足跡をつけたのかしら? 分からなかった。それとは違う、彼だけの、彼女だけの目指す場所があったかも知れない。ああして通せんぼをしておけば、さすがにもう迷い込む者も減るだろう。人の通じなくなった道はやがてかたちを失い、最初の目的も、その目的が失われたいきさつも覆われて、余分な憂いからも解放される。

「これは、私のお仕事だもの」

 タッパーに入れたたくあんをポリポリかじると、時代に押しこまれてつけた踏み跡は行くところまで行き着いて、わけもわからないまま誰かに譲ることは出来ない――そう清々と笑った、皺がちな顔が浮かんでくる。どれだけ時間をかけた暮らしだったのだとしても、その道筋の値打ちは自分だけのものなのだと、まさか幼い自身の拒絶が彼女に気付かせたなどとは思いもしなかった。
 ボトルの水は、あっという間に飲み干してしまった。いちいち汲み直すのも面倒で、受け皿の岩から落ちる水を手ですくって直接飲んだ。ひたすらに染み出し、流れ続ける沢の清水は、掌の中でたくさんの光を閉じ込めて柔らかく揺れ、無味という名の味がする。その揺るぎの無さの中では、失敗作だった筈のたくあんもポリポリと十分に美味しい。自分が漬けたものだと思うと、自然と笑顔がこぼれた。
 目を閉じても光の滲んでくる瞼の奥の薄暗闇の中で、ここなちゃんは沢の流れる音を聞き、このあと辿ることになる、下山ルートのことを思い描いていた。




| | コメント (2)

2017年2月19日 (日)

■すてきなRestart~『けものフレンズ』OP ようこそジャパリパークへ!感想~ -更新第1111回-

2月も半ばを過ぎて、少しずつ寒さが和らいできてしまった。
一昨日に吹いたのは春一番だったというし、
あの心身ともにざわつくような陽気には参った。あれに来られると疲れが酷くなる。
今年もいよいよ冬が終わってしまうのかと思うと憂鬱になる。
自分はつくづく冬が、寒い季節が好きなのだなと実感させられる。
とはいえ、この冬は長かったように感じる。
というか、深かった、というべきか。

そんな、寒さが終わろうという頃にもかかわらず、
『けものフレンズ』がアツい。
さばんなちほーだから、ではない。さばくちほーだから、でもない。
「足の裏に毛が生えているから、砂が熱くても大丈夫」という問題でもない。

マ物語の先読みや裏読みは、そういうことがお好きで得意な若手フレンズの皆さんにお任せして、
老人のオイサンは通常営業、
すっかりこころを掴まれてしまった『ようこそジャパリパークへ!』の歌詞について、
思いを深めていきたいと思う。


▼『けものフレンズ』主題歌「ようこそジャパリパークへ




……つっても、「シンプルでいい歌詞ですよね」というくらいのことだけど。
グッと来た歌詞の部分だけ引っこ抜くと、


  ♪  ほらね君も手を繋いで だいぼうけん!
  ♪  Welcome to ようこそ、ジャパリパーク! 今日も ドッタンばったん おおさわぎ!
   ♪   (中略)
  ♪  はじめまして きみをもっと知りたいな

   ♪   (中略)
  ♪  Welcome to ようこそ、ジャパリパーク! 今日からはどうぞ よろしくね
  ♪  いつもいつでも優しい笑顔 きみを待っていたの

   ♪   (中略)
  ♪  どこまででも つづいてく グレートジャーニー

  ♪  ランランランラー ランランランラー Oh, welcome to the ジャパリパーク
  ♪  ランランランラー ランランランラーランラ あつまれともだち
  ♪  ランランランラー ランランランラー Oh, welcome to the ジャパリパーク
  ♪  ランランランラー ランランランラーランラ すてきなたび立ち



……とまあ、こうですよ。
なんかもう……なんでしょうね? すごい普通でしょ。やさしい。
『ごちうさ』が、「かわいいだけのアニメである」ことを完全に研ぎ澄ませて
オンリーワンにまで上り詰めた
のと同様、
『けものフレンズ』は「やさしい」ことを研ぎ澄ませているように見える。
世知辛いヨノナカ、右を向いても左を見ても、お前の経済的価値はなんなんだ
「ほんで、おまえはナンボになるんや?」みたいなことしか問われない世の中で、
これだけナンモナシで、
「よく来てくれたよぉ、待ってたゆぉ、紅茶のむぅ?」
みたいに優しく迎え入れてくれてしまったら、そりゃもう世のオジサン涙くらいでますわ。

  マ正直なところ、オイサンは人間のフレンズは少ないマン(かなしいヒーローだな)なので、
  アナタトワタシ、トモダチトモダチ、ナカマナカマー
  と人から迫られたらNoNoNo, No Thank youとジェスチャー全開で後ずさりですが、
  この作品の世界観の中で唱えられる「ともだち」「フレンズ」は、
  そういうニュアンスとは異なるものになっていますね。
  人類愛というか、生物愛というか。
  おっ? お前さん、生きてるね? 嬉しいねえ、みたいなことです。
  分かりやすいですね。
  分かりませんか? 分かりませんね。 分かれこのやろう。 ← フレンズ減の原因


いっこいっこ詳しく見ていきましょう。
……気が進みませんか?
それでも気にせず見ていきますので、気が向いたら先に進んで下さい。


  ♪ 手をつないで だいぼうけん!

早速いいですね。
「『手』をつなぐ」ということの「小ささ」と「大冒険」の対比がすごくいいワケです。
手をつなぐことは大変小さなことですが、
「大冒険」という壮大な広がりの中でその異質な小ささ、些細な「抵抗」は、
却ってこう、その行為に大変な密度を予感させもするのです。
そこに凝縮されたエネルギーの構図が感じられ、
この一節だけで、アニメ本編におけるかばんちゃんとサーバルちゃんの結びつきの強さが際立つのです。
いいですか? 際立つんです……際立つったらキワ立つの! 際立て!!(命令)

  際だて!さーばるちゃん!(ラノベ)

……マ正直な気持ちとしては、
物語開始初期の時点では
「パークの中で図書館まで行くだけの話で、『大冒険』は盛りすぎだろ……」
と、オイサンも思いましたが。
ここンとこワリと大冒険っぽくはなっているのでよしとする。


 ♪ 今日もドッタンばったんおおさわぎ!

のところも……やはり当初は「いや大騒ぎはウソだろw」と思って見てました。
だって1話、2話の頃って大騒ぎと呼ぶには物足りないような、
大変ほんのりした、のどかな旅路だったのですもの。
普通に行く、という感じで。
3話あたりからは、関わるフレンズの数も増え、アクションも大掛かりになってきたのでアレですが。

マそんな嘘かホントかはサテおいて、なかなかこう、
イマドキの物語作品においてこの「ドッタンばったんおおさわぎ!」というフレーズを
バッチリ使いこなすのは、大変に勇気のいる行為だと、オイサンは思います。
自分で書いたら、……否、記す前の思いつきの段階で、

  「……。ねえな」

と思って消してしまいそうです。
それをオーイシマサヨシ氏は、恐れずに見事に使い切っている。すごいと思う。
ド肝を抜かれますこの胆力。
揶揄してるのではなく本当に、
「作品にとって正しいから、古臭く見えてもこの言葉で良いのだ」と踏み切るのは
大変な勇気と知性が必要です。
この、一見使い古されてダサいワードのポテンシャルを完全に使い切る力は
いっそスタンド能力と言ってもいいくらいだと思いますよ。


 ♪ はじめまして きみをもっと知りたいな
 ♪ ……
 ♪ ララララー ララララーララ あつまれともだち

 ♪ 今日からはどうぞよろしくね
 ♪ いつもいつでも優しい笑顔 きみを待っていたの


いくつか時系列をすっ飛ばしてまとめました。
この辺の「受け入れ力(ぢから)」の強さは……
無論、受け入れられた先にやさしさが約束されているからこそ
歌の言葉を素直に受け入れられるワケでもありますけれども、
マその辺は、ひねくれて、おのれの心の孤独に生きるオイサンのような者には、
現シ世では手に入れ難いものなので、尚のこと手の届かない宝物のように映るのでありますよ、
エエ。
心の歪んだ年寄りのタワゴトだと思って見逃がしてくだされィヨボヨボ。
現世……「うつしよ」とは、鬱シ世でもあるなあ。

大概、受け入れられた先には、受け入れた側の身勝手な都合と過剰な期待、
利害が待っておりますから、
なんというか、受け入れる側になった自分の姿としてお手本にしたい、
憧れの姿であることです。


 ♪ どこまででも つづいてく グレートジャーニー
 ♪ ララララー ララララーララ すてきなたび立ち


……なんていうんですかね。
"グレートジャーニー"は、アフリカで発祥した人類が世界に拡散する旅路を表したことばですが、
この言葉を聞くとき、たいてい「人間がここまできたこと」の結果としてのニュアンスが、
語られることの大半を占めるワケです。結果としての旅路の話として。
しかしナンダ、今回この歌を聴いて初めて、
ああそうだった、そういやそれってまだ続いてんだなと、思い至ったわけですよ。
シメの歌詞も「すてきな旅立ち」ですからね。

……実際のところ、『けものフレンズ』の物語において、
かばんちゃんの仲間(要するに人類)が本当に絶滅した存在なのかはまだ分からないけども、
もしそうだったとして。
かばんちゃんは、唯一生き残った……否、新生のチャンスを得た人間として、
フレンズたちとこの先、どんな関係を築いていくだろうか?
現生人類と同じ「まちがい」の道をたどるだろうか。

  「まちがい」と書いたけど、
  別にいまの人類とフレンズの関係すべてが完全にまちがっていると言っている、
  ワケではないですのでその辺オマチガイなく。
  どこかは合ってるし、その分どこかはまちがってる、くらいの捉え方をしたい。
  マ大方間違ってる気はしますけど。

地球の、自然界という愛の輪から逸脱してしまった現生人類が絶滅した後に、
かばんちゃんはいま一度「フレンズ」たちとフレンズになってやり直すために新生した、
再出発の人なのかもしれない。

  ……て言うか、フレンズはあくまでも「フレンズ」であって、
  『けものフレンズ』の世界でも、
  ジャパリパーク以外の場所にはフレンズでない普通の動物もいるのかしら。
  フレンズたちは普通の動物とどうふれあい、
  かばんちゃんはジャパリパークの外の世界でどう生きるんだろう……。
  その練習のために滅びた現生人類が用意した練習の場なのかもなあ。

かばんちゃんの目覚めは、人類の再出発なのかも知れぬ。
それを「すてきな」ことだとしたのはもう、
作詞者・オーイシマサヨシ氏のやさしさとしか言いようがない。

……マ個人的には、『けものフレンズ』をそういう壮大ゲなもの、
テーマを大上段に構えたエラそうで面白いモノとして考えたい気持ちはあんまりないです。
ひとえにここちの良い、気楽なものとして持ち続けたいんだけど、
オーイシマサヨシ氏が、何かを思い描いてビジョンにこめたのだとしても
とてもよくわかるし、素敵だと思う。

進化の結果の事実としていまこのようにある人間が、どこから来たのかはサテオキ、
いま何を持っていて、何が足らず、
この先それをどう使い、どのようにまわりと関わりあって、どちらへ向かおうとするのか……
そんな思いの途上に現れたゆめみる箱庭、
それがジャパリパークなんじゃないかな! たっのしー♪


■よだんフレンズ

余談だが、グレートジャーニーについて改めて調べてたら、
GIANTのラインアップに同名の車種があるの見つけて欲しくなってしまった。
10万か、うーむ。(どこまでいくつもりだ)

  ▼GIANT グレートジャーニー [GIANT]
  http://www.giant.co.jp/giant17/bike_select.php?c_code=CA02&f_code=FD02&s_code=SR15

ランドナー、他にもカッコイイのとか軽いのがあるなあ。

  ▼自転車旅行におすすめのランドナー・スポルティーフ15選を紹介します。[NatureDrive]
  http://cycle-japan.com/randonneur/


『けものフレンズ』を見る
   ↓
『ようこそジャパリパークへ』の歌詞についてふかく考える
   ↓
"グレートジャーニー"について復習する
   ↓
同名の自転車を見つける
   ↓
ちょっと前にもあった、ランドナー欲しい熱が再燃する ←イマココ


マそんな感じでヒトツ。

『けものフレンズ』は、見ていて気持ちよくて、確かに楽しいのだけど、
そろそろ「なんで面白いのか」は分からなくなってきた。
面白い、楽しいというか、見ている間中ひたすら嬉しいのだった。
あ、始まった。嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい
嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい
嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい
嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい終わった。

……で、30分終わる感じ。
脳のどこかが開きっぱなし、出ちゃいけないものが出っぱなしになっているような気はする。
昨年の冬に『おそ松さん』が女子の間で大人気になったのもオイサンの理解からは外れていて
(『おそ松さん』自体は面白くてオイサンも楽しく見ていたけど、
「女子にキャーキャー言われるような人気の出方をして、それが爆発的に持続する」のは
  やはり説明を付けて自分を納得させることは出来なかった)、
えらく困惑したものだけど、今回のはそれを超えている。
いや、超えてはいないのかもしれないけど、自分もその熱狂の渦の中にいる分、
ワケの分からなさを体で味わっている。

OPラスト


  ♪ ララララー(ララ!ララ!) ララララー(ララ!ララ!) Oh, Welcome to the ジャパリパーク

(ララ!ララ!)が嬉しくて、胸が詰まってしまうくらいなのだから、
やはりなにか良くない塊を投げつけられて、当たってはいけないところに当たっているように思う。
困ったものだ。
あと残り半分のうちに、どうにかその正体を言葉にしたいと思う。


「サファリ」という言葉も意味をよく知らないなあと思って調べてみたら、
アラビア/スワヒリ語で「旅行」って意味らしい。
普通のことばだった。
信州へサファリに行きたいとか、京都サファリしたいとか言えるのか。
ときめく。

温泉サファリしたいオイサンでした。

 
 

| | コメント (0)

2017年2月18日 (土)

■頭文字H~イニシャル・エッチ 花と性愛の頃~アニメ『セイレン』感想 -更新第1110回-

『けものフレンズ』でバカみたいなことばかり言っていた反動か……
『セイレン』が気になってきた。
あの地味さが、妙に。

3話から見始めて、4 → 5話まで見たところで1話に戻ってきた。
1話、いいですね。

『アマガミ』の続きのような位置付けになっていたせいで、
なんとなく主人公を、正当なるザ・紳士の血脈のつもりで見てしまっていましたが、
嘉味田くんは……真面目っ子なんですね。
そのことに気付くのに結構時間がかかってしまった。
飛びぬけてファニーな発想の持ち主でもないし、性癖にも特殊過ぎるほどの特殊性は見られない。
将来に不安を抱えているだけの、何なら若干おとなしいくらいの、
いじられやすい真面目っ子だった。

その代わり、際だって異彩を放つのは輝日東という生活空間の異世界感w
住む人や町並みこそ現実の日本だけれど、
パンダココアに始まり、
茶巾寿司定食が大人気だとか、
昆布のりうどんとか、
お化け屋敷スゴロクの内容と、それで平然と遊ぶ高校生、
カブトムシの話で盛り上がる担任にシカ育成SLGと、
食べ物を中心に、娯楽、人のちょっとした気質など、
広々とした世界の中で、文化のはしばしに尖りが配置されていて
心の落ち着く接地点がひとつもないw

異様な細部を積み上げた結果、見える風景はざっくり同じに見えるのに、
足元がグラつくようなエキセントリック加減。
面白い世界観の作り方だったんだなあ、と感心してしまった。
そういう肝心なところに背骨のズレがあるから、人間の行動が一種異様でも
「そういう気質・慣習で育ったひとたち」という理屈が納得材料になる。
面白いこしらえ方だ。

そこで本筋の話になりますが。
御大高山の、哲学みたいなものには共感できるんです。

男の子はエッチな心根から恋をするものなんだということを、
御大高山は謳おうとされているように思われます。
変化球ではあるけど。

そして、女の子も女の子で、男の子とは違う目線というか、
女の子なりのなまなましさのエッチさで、恋という行為や思いにアプローチしてくる……
ただその生々しさは、あくまでも男である御大高山ご本人の目線で読み取られたもので、
かつ、
彼の青春時代(というと語弊があるが、つまり性的に最もリキリキムラムラしていた時分)のものだろうから、
今のリアルな女の子の物とは違うかもしれない……。
そこを伝達しやすくするためにエロ……性愛の、殊に猥雑で劣情を催す表現には手練手管を尽くして
エキセントリックな表手法を試みてくるけれど本質はそこにはなく、
ひとえに
「男の子も女の子もエッチなんだよ、エッチで恋をしていいんだよ」
ということを、清潔感でコーティングしながらもムラムラとした艶やかさ、妖しさで描いてくる。

  しかし、清潔感とは書いたもののこのマンガ、先にも書いたような独特の世界観、
  というか生活文化感、一線を画した生活感を備えているがために、
  古びた温泉街のような不穏な、生活の汚れた空気が漂っている気がする。
  埃っぽさと、湿り気過剰のかび臭さというか。
  温泉街の裏通りみたいな猥雑さがある。
  閑話休題。

OP主題歌からして、その傾向は見て取れる。
「キミの花」。
直球だ。

▼キミの花 奥華子



ここでいう「花」を、特段エロいニュアンスだけに特化して解釈するつもりはない。
もっと普通の、可愛らしかったり、華やかいだり、
はかなげだったりするものとしての意味も十分に含んでいる。
しかしそういう様々なニュアンスに包み隠し、
受け手が「花:のことを「おしべとめしべでエッチな教育に使われるやーつ」であると知っているのを利用して、
ほんのりとエッチさを差し出してくる。

  ところで御大高山が「花」をよく使う印象があったのだけど、
  そんなことなかったな。
  『アマガミSS』の森島先輩編のEDのカップリングの「花」が妙に印象に残っていただけだ。
  森島先輩編のED曲をいま改めて聞いてみたけど、下手だな。

オイサンはもはや童貞っていうレベルではなく童貞だから、
つまり、


  ♪ 逢うたび君を好きになって ちいさな手に触れたくて


っていう「ちいさな手に触れる」悦びさえロクに知らないモンですんで、
なかなかその辺の「恋を、始めからエッチなものとして喜ぶ構え」を実感として納得するまでに
時間がかかるんだけども、一旦腑に落ちてくると、
それこそ童貞だものだから、若い悦びや興奮は大変よく共有できる。
多分いまでも、女の人の手を握ったらちょう緊張するしドキドキできる自信ありますしね。
フフン。 ← 得意になるところが違うぞ
その、「(男の子が)ちいさな手に触れる」悦びのエッチさ、
別に手を握ることなんかいわゆるエッチでもナンでもないんだけども、
肉体的な接触の入り口のところで興奮してるってことはやっぱり明らかにエッチなわけで、
「性愛の良さに日を当てる」みたいなことを、
ご自身の実感ある言い方では伝わらないから、
御大高山は手を替え品を替え、
ワキを替えヒザを替えヘソを替えしてどうにか語ろうと、
いまのヒト向けに通じる変換アダプタを探している。

抑え込んで抑え込んで抑え込んだ、
爆発しえないムッツリなエッチさ、一人でいる時でさえ発揮し切れないエロの空気を、
あの作品のカタルシスのなさは、すごいいい感じに表現しているように思えてきた。

なんなんでしょうねあの人は。やはり、一種の天才なんでしょう。
こんな焦らしプレイありますか。
スカートの奥から汗が一筋、フトモモを伝っておりてくるのを
お前らは黙ってそこで正座して待っとけ! みたいな、
はいサーセン! みたいな、
そういうんですよ(どういうんだ)。
マわかんねえけど。
そういうものに見えてきたよ。
まあ絵描きっていうのはそういうトコあるのかも知れませんね。

だもんだから、そういう主題から逸れた枝葉の部分……
例えば、主人公たちがプレイするゲームの内容とかは、
エキセントリックでこそあれ、あからさまに適当に仕上げてくる。
枝葉であることの強烈な主張であるように捉え得る。



……と、そんなことを考えていたら、
「地味に映るのも当然か」という気もしてきた。
エロを表現するのにストイックになる、というアンビバレンツ。



OPのサビが妙に頭に残ったので気になって繰り返し聞いているうち、
なんだか楽しい、良い作品であるように思えてきました。

まテンポがあまり良くないなとか、そういう風に感じるのも確かなんだけど、
このぬったりとした「ズレ」、不快な違和感の世界でなければ表せないモドカシサでもって、
狙ってなにかおかしなことを実現しようとしているのかもしれません。
アニメ、マンガ、ゲームの世界が陥った、分かりやすすぎる記号やあからさまな刺激から、
少しずつでも軸足をずらせて行こうという気持ちが……あるのかもしれない。

  例えばそれは「ビッチ」っていう生態のリアリティであったり。
  なかなか、ギャルゲーのフォーマットでは歓迎されないその生態を、
  なるたけ「いいもの・魅惑的なもの」として持ち込もうというスタンスとか。

彼の描き出すあの繊細な線
(悲しいかな本作ではその芸の線が画面上に顕現することはなさそうだが)が本来描き得る、
線と線の行間ともいうべき気持ちを、
そういう空気を生み出すことで代替させようとしている。

  けどね、オイサン、御大高山の絵が生き生きとするのって、
  静止画だと思うんですけどね。止まった絵、一枚の絵。
  だからゲームの『アマガミ』の、
  ほぼ究極とも言える「止め画を超細やかに動かす紙芝居」は、
  御大高山の画を生かす最も正解に近い御業だったと思いますよ。
  エエ。掛け値なしに。すごかったもの。

というわけで、『セイレン』は、
何かを失敗していまの様になってしまっているのでも、
やろうとしていることを何かに阻まれてああなのでもなく、
ああでなければ表現しえないものなのではないだろうか?
イヤわかんねえけどさ。
けど、その様に「読む余地がある」という可能性は残されているし、
そうでなかったとしても、
じゃあ自分がそれをやろうとしたときのための引き出しとして使えるものを拾えた、
という意味で大変OKです。

そんな可能性を見出すことが出来たので、
ちょっとこの先もそういうポジティブな目で引き続き眺めて行こうと思う。

あと、常木さんのお友だちの一人、髪の長い子は可愛いですね。
アタマちょっとオカシイしw
「私、ポルノ漫画家のサイン欲しいッ!」
って、すごい勢いで言うなw いいよ君。光るものを感じる!
郁夫君も、特段おかしなことを言わない普通のアタマいい男の子でびっくりしました。
この先馬脚を現すのかもしれないけど。
郁夫君のフツーさ、とても好感度高いです。
「元祖尻軽」こと、彼のお姉さんはどうしてるんでしょうね。
相変わらず適当なことを弟に吹き込んでるみたいですが。


作品世界の中を歩くうち、
こういう奇怪なエッジにちょっとずつ肘やらヒザやらをひっかけてほつれていき、
最後には丸裸にされているのかもしれない。

あとこのアニメ、3ヒロインにしか焦点当てないご様子ですな。
残りは……別メディアかしら。
なんにせよ、この作品の好感度を自分の中で上げることに上手いことこ成功したので、
続きがあるなら楽しみにしよう。

最後まで、うまく騙しおおせてくれると嬉しい。



オイサンでした。


 

| | コメント (0)

2017年2月12日 (日)

■この素晴らしい、ジャパリパークで語りたい! ~2017年1月期・アニメ感想 -更新第1109回-

こんばんわ。
『レコラヴ』で、いよいよ反町っちゃんのスカートの中が映せるようになってしまって
終始前かがみのオイサンです。

大したことない画なのにやっぱりスカートの中を覗くってだけでこうふんするなあ……。
反町っちゃんも、嬉しそうなのがけしからぬな。

途中までは、新体操小学生であるところの妃月ちゃんと仲良くしてたのだけど、
一発目がJSってのははどうなんだってんで、そこそこ打ち解けた雰囲気だった
同クラの反町っちゃんに乗り換えたものの、
しかし反町っちゃん、
打ち解けるにつれて関西の訛りや気質が飛び出す頻度が上がってくるため、
仲が深まるほどにときめかなくなってくる、という
なかなかのツンデレスパルタン番長。
いま恋愛レベルが5なんですけど、
そのうち

 「ぱんつ録らしてー」
 「はいよー(たくし上げー)、これでエエ?」
 「あいおっけー。明日もよろしくー」
 「オツカレサーシター」


みたいになってっちゃわないか心配(どんなギャルゲーだそれは)。
そんなワケで、最近はもっぱら、ときおり現れる御前さんが気になっております。
御前さんのスカートの中録りたい(目的が違っているぞ)。

本当のコト言うと、一番美少女・一番好みだなあと思うのはまひろちゃんなんですが
如何せんこのコはこのコで「がぶがぶ~」とか言って噛みグセがある、
というキャラを持たされた堕天使
完全に病気の子なのでアカンです。
オイサンはもうね、そういうギャルゲー然とした子じゃなくて、もっとまともな子が良い。
ギャルゲーじゃなければそんな病いを背負わされることもなかったろうに……。



■2017年・1月期 アニメ感想



カオスですなー。カオス。
マ『けものフレンズ』がいることでカオス感が増してるだけだけど。
ケイオス(なぜ言い直した)。

尚、オイサンの視聴ルールとして、
 ・まったく予備情報のない作品は3話から見る。
 ・原作を知っている、継続作品(2期~)であるなどの場合は1話から見て良い
としています。

これは、
 ・1話目はダルい。(背景説明やらが多い・キャラ紹介的側面が強い)
 ・近年、OPが省かれる(或いは話の最後に回される)場合が多く、テンションが上がらない
 ・順序が分からなくとも面白く見られる作品が本当に面白い
  (自分が見たい面白さを備えている)作品である

……という、強引な経験則と信念に基づいた結果であります。異論は認めない。
それではそれを踏まえて参りましょう。
今期はねアナタ、豊作ですよ。



 ▼『けものフレンズ』

なんかしらんが、やたらと「闇が深い」ことで、ある意味今期の台風の目となってる。
なんでだよw

  ……と書いてしばらく放ってあったら、
  ものの一週間で普通に今期の台風の目アニメにのし上がっていた……
  何が起こっているんだ……。

 ▼公式PV その2
 


ほぼ人間(の女の子)の姿をしつつさまざまな動物の見た目や性質を持ったたくさんの「フレンズ」と、
自分に関する記憶を失った、この世界で唯一人間である(ようだがまだ正体が明らかになっていないわからない)
「かばんちゃん」が、
フレンズのすみかである、サファリパークの様に色んな地形や風土のエリアを備えた
「ジャパリパーク」を冒険するおはなし。

オイサンも、1話から若干の違和感を感じつつ、
それでもワリカシ普通の気分で見始めたのだけど、
TLではなぜか妙に人気テンションが高く、
見た目のトーンの明るさに比して「闇が深い」と評判である(それは高評価なのか)。
……いや、いまや「評判であった」と書いた方がいいか。
もうなんか、そういう理屈の部分から解き放たれた盛り上がりを見せ始めている。

  ……まオイサンのTLは、オイサンが自分の好みで選り集めた方々なので、
  似たような、ケッタイなものを選り好みするのも当たり前と言えば当たり前なのだが。

思えば、この教育番組のような内容で妙にひきつけられるものを感じさせる辺り、
一種の闇が潜んでいることは疑いなかったワケだが。

作画的にはトゥーン調の3Dで、際立ったハイクオリティとは言えない。
ローでもないけど、文句を出させない必要最低限、といった風情。
ボイスも、一部ベテラン勢はおれど、妙に棒読みなフレンズさんが目立って素人くさい印象。
物語展開もあるようでないようで、非常にまったりと進行する。
にもかかわらず目が離せない、というか、見ていてすごいクセになる。

現時点のキホンセンは
「かばんちゃんの正体を知るために、ジャパリパークを横断して図書館へ向かう」
で、そのために川を渡ったり、サファリバスを探したり、山にのぼったり。
その過程で、出会うフレンズ(動物)の特徴が描かれ、
且つかばんちゃん(人間)の知能が際立つ、という、なるほどなあという構成。
面白いのは、動物の特徴を知ること以上に、人間の特質や知能の高さの素晴らしさが際立つことだ。

この「人間がいない」成分に闇アニメ大好き勢が食いついて、
「人類滅亡後の世界では」みたいな、深闇論が展開されている。
マいいんだけどさw 楽しそうに盛り上がってるしw
そして4話まで見たところ、実際そんな感じっぽい。まじでか。
別段そういうストーリーラインでも構わないが、
かばんちゃんとサーバルちゃんは(勿論他のフレンズも)、
最後まで仲良し笑顔でいてもらいたいものです。

最後には多分、かばんちゃんはやっぱり絶滅種のヒトであることが判明して、
ぼくは独りぼっちなんだろうか……と凹んだところへ、
周りのフレンズに「ヒトだってフレンズだよ!」と励まされる、
さらにそこへサンドスターの新たな噴火でかばんちゃんのつがいになる相手が生み出されて、
これからまた仲間が作っていけるよね!
……みたいな、しっかりハッピーな展開を希望するオイサンです。

アライグマのアライさんが、かばんちゃんを「お宝」とも呼んでいたりしたので、
恐らく絶滅種であるヒトには、なんらかの値打ちが見出されているのでしょう。

画や声の絶妙なつたなさがいい方向に作用して不思議な可愛さがあるし、
見ているうちに脳みそがどんどん溶けていきますね……
たのしー! すごーい!
……などとどんどん語彙が欠落し、IQ低下を引き起こす現象も「フレンズ化」と呼ばれ、
専門家(もちろん『けものフレンズ』研究のだ)の間では深刻化が懸念されているご様子。

とにかく相方のサーバルちゃん含めたけもののフレンズの皆さんが、
ポジティブというか、きわめて無邪気に全肯定の方々で、
「すごーい!」
「たのしー!」
「かばんちゃんは考えるのが得意だから!」
「みんなとくいなことちがうから!」
「いいフレンズに違いないでありますよ!」

と、とにかく相手を責めない。
人間の土俵でない場所で、人間でないものに人間である長所を認められ続ける、という
恐ろしい承認快楽の発生装置になっているご様子。
見ていてとにかく、気持ちが良い……麻薬の様だ。
ツチノコさんだけは妙に手厳しかったけどw
あのツッコミは好きだった。

OPも、

  ♪ Welcome to ようこそ ジャパリパーク!
  ♪ 今日もドッタンバッタン おおさわぎ!


だの、

  ♪ ランランランラーン ランランランラーン welcome to the ジャパリパーク
  ♪ ランランランラーン ランランランラーンランラン あつまれ友だちー


だの、ヘンに幼い歌詞でまとまっているのに、妙に頭を離れない。
『月刊少女野崎君』のOPを手掛けていたオーイシマサヨシ氏の曲なのだが、
この辺は狙って統一された意志でやっているのだろか……。
吉崎観音氏(コンセプトデザイン)って、こんなに狙える人だったの?
尚、監督も吉崎氏も、オーイシ氏も、今の本作の当たり具合には困惑しているご様子。
まあ無理もない……。

自分がケモミミ好きなわけでもなく、
キャラクター描写が飛びぬけて可愛いわけでもないのに、
なんだかやたらと可愛く見える『けものフレンズ』……
君も、よろしくない瘴気渦巻くジャパリパークでドタバタおおさわぎしてみないか!? Σm9
気は進まないと思うが! Σm9

 ▼オーイシマサヨシ「君じゃなきゃダメみたい」
  
 ついでに。しかしなんだこのサムネイルは。歯ぁ磨けよ。



 ▼『このすばらしい世界に祝福を2!』

2期目なので1話から見る。
えー、OPがカンペキでした。EDが最高でした。以上。
劇場版1本分くらいの満足度のある、完全なるOP。
クエスト一本分を、各キャラの特徴を生かしながら描き切るという力作、近来稀に見る良OPです。

  かの名作
 ジブリ実験劇場『On Your Mark』に勝るとも劣らないMV
  となっております。(ホンマか)。

 ▼エンディングのPV こちらも素晴らしい曲。
 

前奏~タイトルバックでバカみたいにテンション上げて走る4人も大好きだし、
チョイチョイ挟まる脱力ダンスも愛おしい。
90秒しかないOP中で、
ダクネスが爆発への期待と焦れにクネクネと身を躍らせるさまに5、6秒も割いているのは
最早愛のなせる業としか言いようがなく、
もうパッと見「コレ作画崩れじゃないの?」と思えるほどグダグダに溶けて描かれているのも
ここで以て
「本編内での作画溶けも、意図的なものですよ、手抜きじゃないですよ!」
と宣言しているものであると見れば、ある種、匠の手技と言えよう。

そんな中でも、見せ場ではかなりのかわいさ・りりしさを保って描かれるめぐみんは
やはりひいきされている気がする。

1話目の内容としては、
ダクネスにこんな立場的アドバンテージ(カズマ・3人への貸し)を持たせてしまって大丈夫なのか?
と思った。
……マこの3人がこれを借りだと思うようなマトモな神経を持っているとも思わないけど。
3話まで見たけど、本編的なテンションは、まだそこまで上がっていないように思う。
彼らに求められている面白さは十分に達成している、とは思うが、
期待値はもうワンランク上だ、頑張ってくれ。



 ▼亜人(でみ)ちゃんは語りたい

OP・EDともにハイレベル。特にEDの切なさがいいかな。

ドタバタに見えて、どちらかというとしっとり成分の方が豊富な作品。
穏やかで、静かな間をつー……っと引っ張る時間を結構長く感じさせて、
終わってみると30分がすごくながい、高密度な印象を受ける。
切ないよね。面白いです。
ドタバタるときはドタバタるけど、印象としてはドタ2、しっとり8くらいかしら。
かなりの湿度を誇る作品。いいぞ。

原作にはノータッチ。ウケているのは知っていたが、イマ一つ手を伸ばせずにいた。
題材的に、青春の孤独、みたいなものを描くのかなと思いきや、
さらに一歩踏み込んだところまで行きそうな予感があって、1話終了時点では先を見るのが怖かった。
けど、2話目はさわやかだったから、マ安心して良いのかもしれない。
必要以上にギトギト・ノタノタはしなくて済みそう。晴れやかに終わって欲しいな。

あと、この作品の中で語られている亜人(デミ)は、
亜人という定義よりも、むしろモロにモンスターだと思うんだけど……どうだろう??
まあ、エルフ、ドワーフあたりがデミで、
ライカンスロープ(獣人)はデミじゃないのかと言われたら微妙で、
そこからさらにバンパイアとかに派生してしまう気持ちは分からんでもない。
けど、デュラハンはさすがにどうなんだと思うし、
サキュバスは明確に悪魔だろ!
……なんていう議論は、既に出尽くしてるんだろうから
敢えてオイサンが一周遅れて言うべきことでもないと思うケド。



 ▼『南鎌倉高校女子自転車部』

原作を知っているので1話から見る。

……。

ねえ、なんで「フィクションで自転車に乗る女の子」は、
こんな人様に迷惑カケホーダイの物を知らないポンコツばっかりなの?
作劇をさぼってるとしか思えないこのテンプレぶり。
少し恥じなきゃいけませんよ……。
とはいえそれは原作由来成分なので、アニメ化関係者に罪はないのでしょう……
けれども、あまりにも「ひでえ」と思ったら、そこは改変したっていいと思いますけどね。
「つまんないから変えました!!」
っていうやつがいたっていいと思うよ。

原作が、あまりマンガ的に上手でなく(原作disってばっかだな、マいいか)、
レースをやるんだけどその状況がすごく伝わり辛いもので読んでいてあまり面白くなかった
(そして途中で買うのをやめた)。
アニメの力でその辺が伝わりやすく描かれることを切に望む。

けど、自転車のハナシって、なんかこう……無理がある話を、
話づくりのためにあまりにも平気でやる気がしていて、全体的に印象が良くない。
学校行く前に乗る練習とか、のってちょっと走っただけでやたら大げさに喜ぶとか。
立ちこぎが出来ただけで大はしゃぎとか。
どーもその辺が、見る視線がヒンヤリしてしまう原因である気がする。

乗れてちょっと走れただけで「アタシ、どこまででも行けそうな気がするッ!!」
ってなる流れ、高校生にもなってもうチョイどうにかしませんか。
中学まで何やってたんだよお前、って思うけれども、
しかし、
目に余る老齢ロードバイク乗りとかが量産されている背景には、
そういう「何かが極端に出来るようになった間違った全能感」が
その過程で与えられることに因って起こっている、のだと考えれば……
この
「ロクに何もしてこなかったポンコツJKが
 初めての成功体験に酔いしれてワガママ放題し始める」
というテンプレートは、あながち間違ったものではないのかもしれない。

冷静に分析しとる場合か。
えー、女の子が可愛い自転車のアニメです。
あと鎌倉とかが舞台です。



 ▼『小林さんちのメイドラゴン』

3話から見る。
……のにもかかわらず、開始1分半で心を掴まれてしまった……アバン30秒、OP1分なんだけど。

OPサビで、モブい人たちが竹トンボのように回転しながら空を上がっていく絵があるのだけど、
なんだろうか、そこで毎回、ちょっぴりホロっと来てしまう。
初めて見たときもその画を見た瞬間
「あ、これはホームコメディなんだ」と理解して、嬉しくなってしまった。
なんなんだろうこの感覚。

1・2話を録り逃してしまったので3・4話しか見られておらず、
トールさんとカンナちゃんがなぜ小林さんの家に来たのかわからないけど、
困らないで見られるのが素晴らしい、
けど、どうして来たのかすごい気になるのもスバラシイ。
「困った奴はいるけれど、悪い奴はいない」という安心して見られるフォーマット。
画は安心の京アニクオリティ。
監督が、あの永遠の京アニナンバーワン大ヒット作品『氷菓』の武本カントクなので大安心。

……ただ、この感覚は、
「きれいにコヂンマリまとまり過ぎてて、見ている間はほっこり楽しいのだけれど、
 終わった瞬間スカッと忘れてしまうヤツ」
の匂いがプンプンする。
「アーオモシロカッタ、ハイツギ」のヤツ。
どこかで良いフックが生まれてくれるといいのだけれど。

あと、小林さんは、『けものフレンズ』のカバンちゃんと合わせて、
今期の2大性別不明人物に任命します(不名誉)。
女性……だよねえ?
あと、カバンちゃんは男だと思ってたんだけど。

 ▼fhana / 青空のラプソディ - MUSIC VIDEO
 
 オイサンはfhanaさん大好きです。結構CD買ってるよね……。


この原作、アクション連載でクール教信者先生だったのね。
言われて見ればなるほどだけど、なんか意外だった。
fhanaの歌はいいよね。



 ▼『ガヴリール・ドロップアウト!』

2話目を録り逃して3話から見る。

TLでワリとよく名前を見かけ、かつ好意的な反応だったので期待値ちょっとだけ高めで見てみたけど、
普通だった。
ポジション的にはあのヘンに近い。『三者三葉』ら辺。
舞台やキャラ仕立てとしては、
 ・現世に降りてきた(降ろされた?)天使と悪魔の交流
 ・ダメ天使といい人悪魔
っていうのはありきたりというか予測の範囲内なので……まあ、普通かなと。
ロゴが好き(どこを褒めてるんだ)。

後追いで1話を見たが、1話はなかなか面白かった。
んーでも、このあと1話以上に面白くなっていくという希望は薄メな感じ。



 ▼『セイレン』

えーと、一応書く。
『アマガミSS』の時も思ったけど、地味。地味です。
おとなしいとか、穏やかとか、落ち着いている、とかではなくて、地味。
もう一歩間違えると「ダサい」「野暮ったい」になる。
地味。
そしてテンポや演出が洗練されていないのだと思われる。
専門家ではないので具体的に正しい指摘が出来る気はしないけれど、
カット割りと画角の切り取り方が良くないんじゃないだろうか、と、
素人考えで言ってみる、がどうなんだろう。

画が、見せたいもの、表現したい感情に対して、非常にぼんやりしていると思う。

音楽は良いと思います。
が、画的なテンポの悪さに引っ張られて印象に残らず、
音楽は音楽だけ聞いた方が映える、という、それはキミいったいどうなんだ、
という状態に陥っている気がする。

見始めたのは3話から。3話・4話を見た。
案外、ストーリーとしてはキライじゃない感じ。
良いと思います。
ヒロインの思考回路は乗り切れないところがあったけど、
その辺は高山御大一流の「ビッチ(尻軽)」理論に当てはめれば、実感としてはつかめなくとも
理解はできる。
そういう意味では筋が通ってるし、物語の地味さは、リアルというか、
共感出来る範疇にあると思うのだけど。

……なんだろうね、これが制作陣の意図したところであって、
「狙った通りに作れている」というのなら特に問題ないと思う。
「考えていたことが、形にしてみたらつまんなかった」っていうのは
まだ救われるんだけども、
見ていると、
「考えた通りに作れていない」ように見えるので、
そこは大丈夫なんだろうか? と心配になっている。
お金なのか、時間なのか(マこの二つはどうにかしてもらわないと仕方ないけど)、
コミュニケーションの問題なのか……まあハタから見た妄想に過ぎませんけどね。
なんだろうか、モヤモヤするなあ。

放映前から、『アマガミ』との世界観とかキャラの連続性をちらつかせて
へんな風な盛り上がりに誘導してたんで、好ましくないなあと警戒してたんだけども、
マその辺の仕掛けですべるよりは、
こうして潔く「普通にしんどい」方向で滑ってくれた方が諦めもつくので
ありがたいと言えばありがたい。

OPも、曲はいいのにどことなく歌にマズさを感じて結局まだ購入には至っていない。
いろいろシンドイなあ。



■Closing

マそんな感じで。
他にも『ピアシェ』とか『OneRoom』とかの五分アニメ、
『幼女戦記』『バンドリ』『スクールガールストライカーズ』『うらら迷路帖』
なんかも拾い見はしている。

そうそう、『スクールガールストライカーズ』は、大変いいクソアニメですね!
久々に、名クソアニメの感触です。
とにかく声優陣が安定の豪華さ。
「とりあえずこの辺揃えときゃお前ら見るだろ」っていう、
カネにモノを言わせてぶっこんだ感じのパワー、
ソシャゲマネーのパワーを感じます。『レヴィアタン』以来のパワー。
面白いところ、ひとっつもないもんな!
ブッ込む過程で生じた様々なムリのせいで天秤ががっしゃんがっしゃん揺れ乱れているところに、
札束の重石で「これでバランスをとれ!!」ってやってるような感じがもう最高です(偏見)。
無理して面白くしなくていい、という割り切りというか、
徹底統一された意志を感じます。
人間には、こういうコンセンサスの取り方も出来るんだなあと感心させられる。
意欲や思いではなく、役割に徹するというか。
完璧です。
いや、ダメじゃない。ダメじゃないですよ。こういうのはアリです。
これは理性
かなり高等な部類の、知性の産物です。
面白くしたくなる欲をぐっと抑し、本来そうあるべきところを捻じ曲げて、
そうではないところへ設定された目的の方向へ、
そうあるべき方へ向かいたくなるのを押し込めて進む、という、一種の知性と理性の力。
自分を信じない、力を信じるという。
すごいと思う。注目です。


あと、冒頭でちょっと書いた『レコラヴ』
どうでもいいけど、ヒロインの子はパンツは毎日替えた方がいいと思います。
見られるの分かってる(見せるのをちょっと楽しんでいる風でもある)んだから、
少しは意識して来いよ! って思う。
反町っちゃん、まいにち同じ黄色いぱんつじゃん。
ギャルゲーヒロインとしての自覚が足らぬ(そういう問題ではない)。
そこはこだわって欲しかった。

以上、嫌な顔されながらおぱんつ見せてもらいたいオイサンでした。


 

| | コメント (0)

2017年2月 8日 (水)

■帰港~喪失の港にて~劇場アニメ『#この世界の片隅に』・感想(後)~ -更新第1108回-

……と、前篇から続いてきたものの、
別にここからは大したことは書きません。


オイサンです。


劇中ですずさんが2回だけ口にする「あせったあ」がすごく好きです。
他は広島弁ガチガチで、すっかり知らない土地の人だけど、
ここだけは言葉もイントネーションも自分の知ってる言葉と違いがなくて、
急に知ってる人、身近な人になった感じがしていい。
抱きしめたい(突然何を言い出すんだ)。



■好き好きすずさん! スキスキ周作さん!

デ、ここからはオイサンが特に気に入った場面についていくつか萌えて各論とし、
シメたいと思います。
色々省いて、見た人にしか分からないような書き方をするところもあるけど
勘忍してつかあさい。


 ▼画と音

映像の素晴らしさについては……正直、何も言えない。
終わってみて気付いたのだが、さまざまな表現や出来栄えが、
当たり前のレベルで「自然・当然」であったのでしょう、
素晴らしさを意識することが出来ないレベルでスムーズに流れている。
イヤミや引っかかりがまったくなかった。これはスゴいことだと思う。

何やらものすごいレベルで調査されたらしい、史実や当時の実在の地形とのリンクについては、
歴史に詳しいワケでも、当時の様子を知るワケでもないオイサンは
そのすごさ・正しさを量ることは出来ないので、なんとも評しようもない。
ただ、その結実であれ、架空であれ、
舞台となる世界は少しだけその端々を知っているような、少し懐かしいような、
自分たちが暮らす今の世界との確実な地続き感に満ちており、
すずさんたちが実在の人物であると錯覚を起こすほどで、
彼女の抱く様々な感情が自分の中にもあるこれと同じ心の感触だと
確かに感じるための十分以上の手助けになっていたと思う。

それと、感じたのは、広島と言えば終戦の象徴のように語られることが多いことから
「夏」という印象だったのだけど、この映画の中では冬の情景が大変印象に残った。
暑さよりも寒さ、土間やかまどの石の、冷気をたっぷり吸いこんだひんやりと頑固な感触が伝わってきた。
戦争映画というと、燃え盛る炎と、豪の中のじっとりと閉じ込められた空気ばかりの印象だったから、
この印象の違いも、長い上映時間(2時間20分くらいある)でも強いストレスなく
集中して見通すことが出来た一因だったろう。


 ▼「執拗」であること

これは原作由来の成分ではあるけれど。
伝える、ということに対して、執拗な作品であったと思う。
何の話かといえば……すずさんの右手をも吹き飛ばした、その物語についてだ。
そこそこの物語であれば、晴美さんの命を奪うにとどまるだろうと思う。
けれど、この物語の作り手たちは……それだけではまだ、
「他人事」だと心で処理してしまう受け手がいることを知っていたのだろう。
彼らの情熱は苛烈だ。
どちらが先だったかはわからない。
右手か、晴美さんか。
しかしいずれにせよ、彼らは……受け手にその痛みを届かせるために、
すずさんの右手を吹き飛ばした。
受け手の、「自ら」の体の一部を引きちぎることで、受け手全員を完全に巻き込んで見せた。
「喪失」を、より完全にするためだ。
それが彼らにとってそのような史実であったのかもわからない、
しかし、これを表現に対して執拗、と言わずして何といおう?
見習わなければならない……。


 ▼小さき人たちと世界の不均衡について

全編に渡って素晴らい映画だったんだけど、数か所だけ、言葉で引っかかりを感じた箇所があった。
それは、本編の中で3回だけ使われる「世界」って単語だった。
まあ些細なことなんだけど……。

  厳密には5回出てくるんだけど、うち1回はすずさんのお義父さんが口ずさむ歌の歌詞で、
  もう1回は、別で言われたときの回想なので3回とカウントした。

どうってことない、水原さんがすずさんに言う
「お前だけはこの世界で普通でおってくれ」っていうのと、
もう一つは周作さんがすずさんに、もう一回はすずさん自身が、
それぞれ居場所について語るときに出てくるのだけど……。
なんていうか、世界を相手に戦争をしている時代とはいえ、
この規模の日常で暮らしている人たちが……果たして、
自分たちの存在を語ろうとするときに自然と「世界」っていう範囲を意識するものだろうか?
と、彼らが当たり前のように世界の中に自分を置こうとするその意識に、
ちょっとした引っかかりを覚えたのでした。
特に根拠はないんだけどね。

でも、今の今まで足元すらおぼつかないような範囲しか見えないでいた人たちが
突然「世界」って言い出したから、
フッと意識が遠くへ追いやられるような違和感を持ったのは事実。
それをどーこーせいと言うんじゃないけど……
そう思ったよ、ってだけです。

……あー、今思い出したけどもう一回あるわ。
周作さんが大和のことを「世界一の軍艦」って紹介するなあ。
マそれもノーカンでいいや。


 ▼すずさんと周作さん、帰りの汽車でけんかする。

  「お二人さん……そりゃあ今せないけんケンカかね?」

狂おしく愛おしいシーン。
駅員にそう呆れさせた、あのシーン。
広島のすずさんの実家での兄・要一の葬式からの帰りの汽車の中で、
すずさんは周作さんに対して
「水原さんと話す時間を作ってくれてありがとう、けど、夫婦ってそんなものですか」
と、腹立ちと不服を露わにするシーン。
ここでの周作さんの、子どもっぽいジェラシーと反論がすごく良いし、
そこから発展するケンカがまた、なんとも愛おしい。
「こんなちいさなことでいちいちいがみ合っていられることの幸せ」が、
とても暖かく描かれている名シーン。
ケンカは進行しているはずなのに、言い争う中身がどんどんけちくさく、なっていくのがまた
なんとも愛おしい……。


 「ほお、怒っとったとは気付かんかった」
 「そりゃ注意力散漫じゃあ! そんな、ほげた(穴のあいた)靴下はいてきて!」
 「すずさんの繕ったのは小さすぎて履けんようなっとったろう!」
 「他のがあったでしょうに!」



って……。おふたりさん! 萌え萌えですw!
そして、呉に着いてから家へ向かう


 「ほらまた方角を間違えよる! うちはあっちじゃ! 灰ヶ峰の方角じゃ!」
 「わかっとりますて!」



っていう後ろ姿なんかもう、あー、こうやって夫婦になってくんだなあ、
こういうしょーもないケンカ、どっかで見たなあ、と……うちの両親を見るようで。
親バカならぬ、子バカですけども。

しかし、水原とすずさんに「話す時間を作ってやった」周作さんは、
深い不安と、後ろめたさにも似た複雑な思いもあったことを思うと胸が苦しくなる。
いつ死んでしまうか分からない、「死に遅れた」と口にする水原への男としてのシンパシーもあり、
すずさんが水原に心惹かれているかもしれないことに思いを馳せ
(察知していた、と言えるほどたしかな思いではきっとなかったにせよ)、
ある種強引に広島へ連れて来てしまったすずさんへの後ろめたさの代償行為でもあり、
またこの先の戦争で水原が死んだとき、永遠に失われる彼への思慕が美しく大きくなり過ぎることを防ぐため
(いっそここで抱かれておけば、現世の思い出にとどめ置ける)、という、
ことここに至っていまだ小狡くある算段もあったのかもしれない。
本当に、あのシーンの周作さんの思いには、慮ってもはかりきれないかなしみがある。
これもまた、戦争という時代が生み出した思いではある。
戦争は色んな人の人生を、ゆがめながらも一方で作ってはいたんだなあと……
怒られるかも知れないけど、思うオイサンです。
奪うことの方が、やはり多かったに違いないけどね。


 ▼マイベストすずさん of the year in 1944

さあ、お待たせいたしました。
個人的マイベストすずさん in 1944 の発表です(ナンダソレ)。
裏の畑で港とお艦を描いていたら憲兵に見つかってしょっぴかれるときのすずさん。
草色の半そでアッパッパ姿の。
このときのすずさんはちょっぴり日焼けして見えて(夏の昼下がりの光の表現かもしれないけど)、
一番健康的に見えて……妙齢の女性の色気を感じました。
色気ムンムンな時期だったと思う……。
多分この時期、周作さんとヤ(自主規制)。
いや、周作さん、帰ったらこんな若奥さんが待ってるんだとしたらそらもう
タマランと思いますよ。すっ、すずさんっ!

  ……って、この映画をそんな目で見てる瞳が世の中にどんだけあるか知らんけど。

まあまあ、品のない冗談はさておき、戦時下にあっても女性的な魅力もきっとあったに違いない、
若い人の熱量っていうのは傍にあるだけで周囲を引き付けるものがあるから、
それなりにお年寄り多ゲな地域でもそういう役割をになっていたのではないか、と思います
(適当にそれっぽいまとめ方をする)。


 ▼大和~東洋一のくろがねの巨砲、凹んだ人妻を奮い立たせる

だから表現の仕方。
イヤ、そんな目でばっかり見てるわけではないですからね……ホントに。

広島への里帰りで深刻な疾病(ネタバレを避ける記述)が発覚し、
呉に帰ってからも密かに気に病んでいたすずさんを元気づけたのが、
あの日本が誇る大戦艦・大和の帰港だった、というシーン。
いやー、やっぱ大和はすげえな! 人妻もイチコロだ(だから言い方)!
オイサンは、今の日本にも大和が必要なんだと思いますよ。エエ。
軍事力がー、という意味ではなくて、
「世界一だ」と胸を張ることの出来て、手に触れることの出来る象徴的な巨大物体がですよ。

 とにかくでけえ!
 とにかく震える!
 とにかくそこに「在る!!」

というのは、巨大質量は全てを惹きつけるという、大宇宙の真理の一つなのだなあと
しみじみ実感する。
偶像崇拝とかなんとか言われるかも知れないが、
「なんかわかんねえけどデケえなコレどうなってんだ」
っていう圧倒感は、何物にも代えがたい説得力だ。

  『ストライクウィッチーズ』の劇場版でも、終盤、
  デタラメ大和のわんぱくライン川のぼりによって全員が勇気づけられる、という
  バカみたいな(ほめことば)シーンがあったけれども、あれと同じだ。
  あと関係ないけど、
  『アマガミ』の高山御大も『トゥルーラブストーリー2』のことを、
  「あれは戦艦大和ですからw」と評していたなw
  褒めコトバ半分、揶揄半分でw 良い表現だと思う。

あと、オイサンは全編に渡って周作さんのしゃべりが優しくてすごく好きなんだけど、
ここでの「ほれすずさん、大和に『呉へおかえり』ぃ言うてやってくれ」っていう、
周作さんの台詞、すごい好きです。晴美さんの人も、ものすごい上手だよねえ。
みんな名優だけどさ。


 ▼ラスト……の表現

周作さんいうところの「選ばなかった道」である、広島に残っていたらああなっていたであろう、
しかし授かっていたかもしれない子どもを引き受けることによって、
呉と広島というすずさんに有り得た二つの人生が合流する……という表現だと理解すると、
なんとも感慨深く思う。

ただ、もしこれがそのような表現であったとしたなら、
個人的には「広島のすずさんも右半身をやられていた」というのが、ちょっと引っかかった。
広島のすずさんは左半身に傷を負っていて、
まだ絵を描くことは出来、子どもにも恵まれた広島のすずさんから
呉の、画を描くことを失ったすずさんに子どもが託される……とあれば、
表現としては分かり易かったのではないだろうか、と思う。

しかし、
すずさんの人生というのは、あってもその二通りくらいなのだなと思うと
それもまた、切実なようで、鮮やかなようで、
無闇に選択肢ばかりを背負わされる現代に生きる者としては羨ましささえ感じるのです。
が……
空襲のさなか舞い降りた鷺を追いたてるにも
「いまここへ来ちゃいけん! そっちへ逃げえ! 山を越えれば、広島じゃ!」
と叫ぶしか出来なかったすずさん、「ここ」以外は広島しか知らないすずさんに、
やはりどこか、それだけで大きなかなしみを感じずにはおられない。
あのシーンはあのシーンで……
切実に広島へ帰りたかったすずさんの、追い詰められた心を見せられる場面で……
すごく、別のかなしさでも満たれていた。
美しい場面だった……。



■Closing…



……とまあ、そんな感じで。
長々と書いてきてしまったけど、いやあ、これでやっと一息つける気がする。
本当、2週間前の日曜日に見てから、暇さえあれば『この世界の片隅に』のことを考えてしまっていた。

オイサンはシゴトバで英会話の研修を受けているのだけど、
毎週授業の冒頭で、「週末は何をしたんだ?」って聞かれるのよ。英語で。
今週は、「先週と同じ映画をまた見てきた」って言ったら、先生はびっくりしてましたね。
「So Good?(そんなに良かったのか?)
 What was the title?(題名なんだっけ?)」
みたいなこと聞かれたんで、
「『In this Corner of the World』.
 In Japanese,『この世界の片隅に』」
って教えといた。はっはっは。見に行けばいいよ。

色々と拾い損ねている部分、考えの足りないところもあって、
思い返すたびにどんな意味があったのか分からず、悶々と考えてしまっていたけど……
どうにか、これで先ずはひと段落する気がする。

ここ数日は、片淵カントクのTwitterを読んだり、アニメスタイルの連載の過去ログを読んだりしながら、
GoogleMapで呉近辺の地図を眺めてニヤニヤしている危険なおじさんです。
まだ原作には手を付けていないし、
公式アートブックなんかも買おうかどうか、まだ考え中。

いずれにしても、ほかの聖地との兼ね合いもあって、広島には行きたいなあ、と考えている。
大学時代のマブダチも住んでいるし、厳島神社も小学校の修学旅行以来また見たいし、
近くには竹原もあるし、『田中くんはいつもけだるげ』の聖地も広島だし。



最後に。



こうやって、素晴らしい作品について、わからないことや見えていなかったこと、
言葉にできなかったことをじっくり考えてことばにし、まとめていく過程は、
正直苦しくもあるんだけど、とても気持ちの良い時間である。
本当に心地の良い、夢見心地の時間だ。
すずさんのような魅力的な女性に、じっと片思いをして、その思いを綴っているのと同じ気持ちがする。
イヤ、すずさん人妻だけどさ。

きっとこの先も、オイサンはこういう時間を大切にして、
頭のオカシイ片思いを続けていくんだろう。
良い時間でした。
もう一回くらい見に行くと思うけど。

またいつか、素晴らしき物語に出会えることを祈って。
映画って、本当にすばらしいフレンズなんだね。 ← あっ


オイサンでした。


 

| | コメント (0)

2017年2月 7日 (火)

■帰港~喪失の港にて~劇場アニメ『#この世界の片隅に』・感想(前)~ -更新第1107回-

……いやはや、大変なアニメーション映画だった……。
こころをすっかり焼かれてしまって、まだボンヤリと、
頭が、あちらの世界から帰ってきていない。
そう、『けものフレンズ』の話です。


ちがいます。『この世界の片隅に』です。


一度目を見て、感想をまとめようとキーボードを叩いているうちに、
ごくごく当たり前のこととして2回目を見に行ってしまった。別な館で。

  ……と書いても「お前が2回見るの毎回やないか」で片づけられてしまいそうだけど、
  そんなことないからね!
  そういう映画のことを毎回強調して書いてるから、
  毎作品2回も3回も見に行ってるみたいになってるだけで、
  『シンゴジラ』も『レッドタートル』も『エヴェレスト』も、
  『君の名は。』も『きんいろモザイク Pretty Days』も、
  1回ずつしか見てないから。
  なんなら『きんモザ』に至っては0.7回くらいと言ってもいいくらいだ。
  イヤそれは作品自体の薄さの問題だろ。

『この世界の片隅に』、
ともかく、あの物語の世界を思えば思うほど、心はどんどんそちらへ求心されていく。
言葉にしきれない思いが渦を巻くから、
ここらでいったん言葉にしてしまわないとならない。

色々な見方が生まれてしまう作品だと思う。

戦争が主題であるとも見られるだろうし、
家族、夫婦、の愛、そんなものが主として心に響く人もいるだろうし、
出会いの妙、人間のちいささ、そんなものと思う人もあると思う。
そんな中で、オイサンの見た『この世界の片隅に』の感想を残しておこうと思う。

  いっときますけど、
  当たり前のように本筋に触れるコト込みでバンバン書いていきます。
  それだけ一応、断っておく。
  まあ話の筋を知ったくらいで、何一つ価値や面白みの減衰する映画ではないので
  未見だろうが安心して読むがいい。
  それで面白さが損なわれた! と思うなら、2回、3回と見ればいいよ。
  私の言っていることが間違っていないのがわかるはずだ。
  大体私の書き方では、なんのことやらわかりはしないだろう。



■戦争と物語

「戦争」は、この映画ではとても明確に主題ではなく、舞台立てであるように見えた。
市井の人間一人にはいかんとも動かし難い、
つぶさな現象としての理不尽なかなしみの塊……いわば運命のようなものだが、
それがこの映画における「戦争」の役どころであるように思えた。

  運命という言葉がピンと来なければ、
  自分がこの時代に生まれ生きていることを思ってもらえればいい。
  それもまた抗うことのかなわない理不尽のひとつだ。

人が、いかに考え、備え、いかに正しく行おうとも、
運・不運や善悪に関わりなく、避け得難く降りかかる、大気のような大きなひとつのこと、うねり、
それが「戦争」という姿をして、この物語世界には現れている。

そして主人公のすずさんは、戦争と「時代」に、翻弄
……と書いてしまうとどうしても悲劇色が強まってしまうのだけど、
  そうとも限らず、今を生きる私たちと同じで……
その時々の世の中が生み出すうねりに、あっちへ押しやられこっちで流され、
一見自分で何かを決めている様で、
実はそうしたものに囲われた中で最低限をにっちもさっちもいかず、
右往左往して暮らしている。

特にすずさんという人は主体性を表に出さない(芯がないワケではない)人なので、
殊のほか、ほんろうの色合いの濃い生き方、営みをされておられる……ように見える。
すずさんはそういう「ぼぉっと流されてここまできたこと」を、
悔いるでも恥じるでもなく、
それをよろしくないと思うことも(少なくとも物語のあるタイミングまでは)ない。
「ええんかねえ」くらいはあるけれど、それについて何らかの感触をもつことがない
(オイサン自身も、そこに良し悪しはないと思う)。

そんなすずさんの足跡はつまり、自分をとりまく戦争や時代など、
「理不尽」や「運命の様なもの」を含めたものに対する者の、天然の姿そのものだ。
そこに、強いドラマはない。
結果的にすずさんも(誰もがそうであるように、自分自身の人生の結果という)ドラマを得るけれども、
ロマンや指向性はない。

それは人間の(というか生きるものの)本質だ、と、いまのところ、41歳のオイサンは思っている。
風に揺れる柳、瀬に浮かび淵に淀む木の葉であって、
いっとき闘ったり抗ったりすることは、人の世の限りにおいてはあるけれども、
根っこの姿は、意志を「大きな」拠り所とすることが出来ない、寄る辺なき者だ。

そんな頼りない生き物であるところの私たちが、
「大きなもの」から無尽蔵にわき出すかなしみに囚われながら生をまっとうする内には
どんな喜びがあるのか……
そんな風なことを、すずさんという筆でもって、戦争という時代を画布に描いた絵巻だった、
と、この作品を受け取った。



■居場所と寄る辺、よろこびを見つけ出す場所

すずさんの義姉の径子は、そんなすずさんの生きざまに、
「さぞつまらん人生じゃろうと思うわ」と憐れむように慰め、理解を示した。
空襲が激化し、
すずさんが右手と、見知らぬ呉に嫁いできて以来の友であった晴美を同時に失い
いよいよあらゆる支えを失いつつある中で、
「広島へ帰る!」と周作さんに対して感情をぶちまけた直後の、
晴美の母である径子と和解する場面でだ。

  尚オイサンは、2度の鑑賞の中で、そのシーン……
  警報の轟く中、庭に舞い降りた鷺を追い立てようとして機銃掃射の的になり、
  周作さんに庇われて溝の中で泣きわめくシーンでだけ、涙ぐんでしまった。
  なぜだろう。

このときのすずさんは周作さんに対し、
郷里の思い人(のようなもの)であった水原への気持ちを断ち切るほどの愛情を、
既に抱いている。
それを捨ててでも郷里へ戻りたいと叫んだすずさんの心がどれほど切実だったか
想像に難くないのだが、
径子に上の様に言われ「ずっと呉にいたい」と心を翻し、言い出すのは……
これは想像に過ぎないが、「そんなことは、決してなかった」と思ったからだ。
つまり、
「自分の意志でなくとも呉へ嫁にきて働きに働いた暮らしは、
 つまらないものではなかった、
 広島の日々と引き換えに出来る、価値ある日々であったし、
 この先そのような日々になっていく」
と思ったからではなかろうか。

戦争という理不尽な時代の中、言われるままに嫁に「もらわれ」働か「され」て、
道を選んでこなかったのは確かだけれど、
果たして自分の暮らしの中に喜びはなかっただろか、誤りしかなかっただろか……。
そう考えたときに、そんなことはないという確かな結論を得たし、
他にもいくらかの、意地とかのささやかな感情もあって、
呉に根を下ろす気持ちが芽生えたと想像する。

「根を下ろす」というのは、この物語におけるキーファクターだ。
それは物語後半、「居場所」という言葉で繰り返し語られ、
すずさん自身の口からも、周作さんからも聞かれる。
径子は
「すずさんの居場所はここでもええし、広島でもええ。つまらん気兼ねなしに決めんさい」
と優しく投げかけた。
「居場所」は、寄る辺なき生を授けられる人間が、喜びを見つけ出す場所だ。
すずさんはそれを、周作さんに見初められ、径子と和解することで見つけ出している。

  余談だが、すずさんが呉に残る決断を下したまさにそのときに、
  広島に原爆が投下されるのは物語に置いて、演出はさりげなくも、
  あまりに劇的で象徴的だ。
  客観的に言うなら
  「広島に原爆が投下される直前に、すずさんがその決断を下した」のだが、
  これをすずさんの物語であるとすれば、
  彼女が決断することで、選ばなかった選択肢が消されたように見える。


――世界は、かなしみで満ちている。


それは、この物語の中では言わずもがな、戦争状態でなくたってそうだ。
満たされているのならまだいい。
汲めど尽きせぬかなしみに、絶えず押し流されている、と言った方が正しい。
現し世は移ろい続け、寄る辺ない私たちはそれを止められないし抗えもしないから、
どうしたって何かが失われていく。
失うことはかなしい。
それはもう、光の速さに追いつくことの出来ない私たちが背負い続ける業なのだけれども、
そうして激烈に失い続けるしかない暮らしの中で人々が口にする、
慰めにもならないような「良かった」という言葉に、
すずさんは、吹き飛ばされた右手を見つめてうたがいを投げかける。

  いったい何が「良かった」というのか。
  ここには、喪失のかなしみしかないではないか……。

無間のかなしみの中にいながら見つけ出すささやかなよろこびを「良かった」と肯定して、
そこを居場所にするたのだということを、周作さんの存在と、
晴美の母である径子の言葉から、すずさんは感じ得たのだろう。

どんどん失くなっていく、かなしみの塊でしかないこの世界で、
「良かった」を口にするための居場所、寄る辺とは、何であり、どうなのか、
どうやって形作っていけばいいのか……
その一つの在りようを、この作品は見せていた。



■主題ということについて

ところで先に、戦争は主題ではない(ように思う)と書いたけれど、
戦争や災害や、すさまじいもの、大きなものの中にいないと、
あれだけのスピードで失っていくこと……
「自分たちが常に喪失のかなしみの中にいる」ことを、強く自覚する機会は少ないだろう。
そういう意味では、この映画は戦争の映画だった、とは言えると思う。
ふつう、失くなることと生まれることは、
(少なくとも現代の日本で穏やかに暮らす限り)ある程度のバランスの上で起こるから、
あれだけ「失くなり続ける」ことを目の当たりにすることは多くはない。

また、テーマとしての愛(のようなものごと)についても似たようなことが言える。
径子に「居場所は自由に選んでいい」と言われたとき、
すずさんは故郷広島ではなく、呉という町の、灰ヶ峰のふもとを選び取り、
「居場所を得る」ことになるけれど、その契機を作ったのは、
他ならない周作さんの、彼自ら「最良だった」という選択だ。

周作さんが、すずさんを見初めて広島から呉へ呼び寄せ、
傍にあって真摯な思いを注ぎ続けたことや、
不完全ながらも夫婦や家族の形をともに作り上げたことがあり、
その結果、すずさんは呉で生き残った。
そして恐らくは……いつしか「良かった」を口にすることで、
最終的に、戦争という時代にも打ち勝っていく。

だから、この物語は、夫婦愛、家族愛の物語である、と捉えることにも十分にたえうる。
本来言語化を必要としないその営みを、
愛と呼んで心の力に変えていく人間独特のちからであるとうたっている、
ということもできる。

誤りたくないのは、
「だから居場所を得ればよいのだ」とか、「愛は戦争や暴力に勝る」とか……
そうした単純化を、この作品がやすやすと許していないことだ。
この作品が語ったのは、すずさんの肉体を通して起こった一つの例にすぎない。
そこに、戦争も愛も、テーマと呼べるようなものは単純なものはない。

一度は得た居場所・寄る辺も、すずさんはまた、戦争によって失っている。
皮肉にも、終戦という形でだ。
玉音放送を聞いた直後のすずさんの慟哭は「なぜ最後までやらない!」という理不尽な叫びだった。
すずさんは戦いを続けたいはずがない、勝ちたいはずもない、負けた悔しさがあるわけもない。
あの叫びは、言うなれば

「一番大切なものは失ってしまった、
 だから自分の『残り』全部がけずりとれるまで、ここですべてを失う腹を決めたのに、
 どうして全て炭になるまで失いきらせてくれないんだ!」

という叫びだったと思う。

「これでいいと思ってきた、これまでの全部が飛び去って行く」という語りには、
得たと思った居場所でさえも、
戦争とワンセットになってしまっていたことが含まれている。
手に入れた居場所は、我知らず「失う」という思いとひとくくりになっていて、
一度、終戦という形で一つの決意と切り離されゼロに戻されてしまった。
あの怒りは戦争そのものへの怒りではなく、その戦争をどこか遠くで作り上げてきた、
奪い、失うことを強い続けた挙句に失う事さえ取り上げた者どもへの怒りだ。

「『これでいい』と思ってきたこと」さえ……
何もなくても良い、「子供でおるのも悪うない」と思っていた自分や
「お嫁に行かなくていい」と言った自分を振り払って根を張ることを選び、
何を失ってでも……否、なかば失うからこそここを守って居続けると決めたことさえ、
最後には奪い去られたことに対する怒りだった。

あとになって思い返してみれば、すずさん自身も
「なぜあの時あんなふうに思ったのだろう、叫んでしまったんだろう」
と思うかも知れない……やりきれない、混濁した、理不尽な思いは胸を打った。

また、親子、家族、夫婦の愛が戦争に負けない――そんな話でもない。
それらが惨めに蹂躙され、暴力に屈する場面も冷酷に描かれている。
原爆に焼かれて故郷の呉まで、山を越えて辿り着いたものの隣保館の傍らで力尽きた、
焼けただれて変わり果てた我が子をそれと気付けなかった、母親の姿がそれだ。
片桐さん……だっただろうか。
そんな、ひとがいつも最後の旗印に掲げたがる武器でさえ、
大きな出来事の前では、ぽっきりと折れる些細な杖でしかないと突き放してもいる。




けれども、そんなものをよりどころにして生き、
「良かった、幸せな人生だ」といつかどこかで口にしなければならない、
そんなか細い、喜びとかなしみの矛盾に組み成された、人の営みの姿を描いた作品だった。




  ……人に限らず、この世の命は皆そうなのだろう。
  進化の過程で言葉や知能を置き去りにした者たちが、
  そのことについてどう感じているかは分からないが、
  彼らはそれに納得したがゆえにそれらを置いていったに違いない。

ところでこの映画を見ていて、「平和ボケ」ということもまた、考えてしまった。
それは狭義な、戦争がどーとか、危機感がこーとかいう意味に留まらず、
自分の人生が特別で安全なものであって、
「デフォルトで」理不尽やかなしみと無縁に守られているものであると思いこむことだ。
この映画が非常な稀有なもの・物語として評価されていることの背景には、
その広い意味での平和ボケ
……自分の人生の安全を生命由来のものと無意識に思い込むこと……
が、ケガや病という日常のレベルで入り込んでいることがあるんじゃないだろうか、
と思った。



……マそんなことで……。



どこまで文字にしても上手くまとまり切らないし、それも当然なのだけれども、
これが、多くの人が「言葉にならない」「一言で語れない」「感動とか泣いたとかじゃ語れない」と、
言葉にすることから手を引いたこの映画の、正体の一部だったと、オイサンは思う。
ひとりの女性が得た史実なのだから……通りの良い結論などなくて当たり前だ。
素直に混濁した思いと、何によって救われたかがあっただけだ。

それがゆえに、わかりやすく説教臭い
「辛く苦しくとも、明るくしなやかに生きていきなさい」
といったようなメッセージはここにはない。
それを全く感じさせないのが、またこの映画の凄みのところだ。

ここまで書いてきたことをまとめると
「人間存在のちいささ」みたいな、味もそっけもないあやふやな言葉になってしまうが、
そのことを丹念に丹念に、ひとりの人間のからだを通じたつぶさな記憶へと描き込んでいるから
誰の手にも届く、手触りのある形になっているのだろう。

そしてまた、そのための手はずとして、
史実や、当時の風景とのリンクを石ころレベルで図ることがあったのだろう。

地続きとも思える時代の水分を持った風景の中を、ただひとえに、
こうやって生きた人がいたかも知れない、
生きていくことが出来たかもしれない、
この先、出来るかもしれない、という一つの具象として描くこと。
「こういうことがありましたよ」と、ただただ真摯に謳うのみだ。
自分の瞳の端にも掠めたかも知れない、人影の物語。
だからこの物語は単純な悲劇では終われないし、時代を悪しざまに批判するものでもない。

争い、理不尽、暴力への憎しみは、
いたいけなすずさんの姿を映して当然心に芽生えるけれども、
それはまた大切な別の契機として、心のどこかへ持ち帰ればよいと思う。

ところでこれは偶然知ったことだけど、『この世界の片隅に』のタイトルは英訳されると

  『In this Corner of the World』

となるらしい。監督がそのようにしたそうだ。
記者に質問された際、『In the Corner of this ...』と言われて訂正したという。
つまり、「この」は「世界」にかかるのではなく、「片隅」の方にかかる、と制作側は考えている
(原作者の意向が反映されているかはわからないが、監督の原作へのほれ込みようを見るにつけ、
相談はされているだろうと思う)。
だから、より限定的に、日本語的にタイトルを言い直せば、
『世界のこの片隅に』が、言葉としては厳密かつ的確になるのだろう。
「どこをも中心、どこをも片隅と捉え得る、球状をした世界のあまねく片隅」ではなく、
「『この』東の果ての日本の、広島・呉という片隅」ということが強く主張されている、
と考えた方が良い、というメッセージだ。

しかしそれはあくまでもすずさんという女性の人生を思ったときのことであって、
この作品を見た私たちは、誰もが自分の帰るべき片隅に持ち帰って欲しい、という広がりを、
合わせて謳っているように思う。

すずさんの得たものが唯一解でない用に、
「this corner」はあまねく個人の視線の先にあるthisであってよいと、
そう言っているように、オイサンには思えた。



……と、ここまでが総論。
ここからは各論というか、オイサンの好き勝手な話になっていくので
(ここまでは好き勝手じゃなかったつもりか)、
一旦ページを改めます。


ほなまた。オイサンでした。続く。




 

| | コメント (0)

より以前の記事一覧